2025年は戦後80年。きょう7月4日は高知大空襲があった日です。この空襲で家族を失った男性を取材しました。
4日の高知市の平和祈念式には、高知大空襲の遺族など約70人が参加しました。
1945年7月4日、高知市はアメリカ軍の125機もの爆撃機・B29によって襲撃されます。犠牲者は少なくとも456人と言われています。
高知市に住む岡村正弘さん(88)は、空襲で母と2歳の妹を亡くしました。
岡村正弘さん(88):
「その場面のことを思ったら言葉が出なくなります。(涙を流し)60を過ぎてからやっと話せだした。普通の生活がいかに大切か、ひしひしと感じます」
今から80年前、小学2年生だった岡村さんは現在の高知市堺町で、父と母ときょうだい3人の家族6人で暮らしていました。
岡村正弘さん:
「(鏡川で)毎日ここまで来て、遊びゆう所でもあった。エビをとりに川へ入って、遊び場やった」
しかし80年前の7月4日、その日常が一変します。
岡村正弘さん:
「向こうにはずっと2階建ての家があったけど、それが全部燃えよって。その向こうも、その向こうも家があったけど全部燃えよったき、炎がものすごく大きかった。身の置き所がない」
当時、住んでいた場所に案内してもらいました。
岡村正弘さん:
「これが私の家の跡地。これが空襲で、見渡す限りが全部焼けた。お父さんとお兄さんは残って消火活動。お母さんは娘(妹)抱いて、そこに防空壕があったきそこへ向いて行った」
母と妹と防空壕へ一緒に逃げた岡村さんですが、中の暑苦しさに耐えきれず、1人で飛び出してしまいます。
岡村正弘さん:
「防空壕の中におって焼けたというよりも、窒息死というか空気がなくなって気を失ったあと、火が続いて焦げた状態。掘り出したらそういうことが想像されるような形で出てきた。30人ばあ入れる防空壕で、結果的に18人出てきた。うちは母と妹がそっからね」
防空壕に留まっていた母と妹は、帰らぬ人となりました。
岡村正弘さん:
「それを見た時のショックが大きかってね。私は50年、そのことをよう話さんかった。思っただけで涙があふれて、声が出んなる。そればあ大きなショックやった」
6月23日、高知市の秦小学校で、岡村さんは講演を行いました。
岡村正弘さん:
「外が昼間のように明るかった。びっくりした。空を見たら、最初に来た飛行機が落とした照明弾。そこへどんどん焼夷弾を落としていった。お母さんと一緒に近くの共同防空壕へ逃げた。向こうの家が全部燃えゆう。空からは大きな音と同時に焼夷弾が落ちてくる。逃げるところ、隠れるところがない」
岡村さんは子どもたちに戦争体験を伝える活動を、約30年続けてきました。
岡村正弘さん:
「戦争はせられん。人権は大切にせないかん。平和を愛する、人権を愛する、そういう人に育ってほしい」
6年生:
「戦争がどれだけつらいことか、家族を亡くす悲しみとかがよくわかった。人が簡単に亡くなってしまうところが恐ろしいと思った」
6年生:
「思い出したくない事を話してくださって、自分たちの子どもにも伝えてって、戦争をなくすようにしたい」
これまでに400校以上の学校で自分の体験を話してきた岡村さん。
岡村正弘さん:
「子どもがおってマイク持ったら、背中痛いの忘れちゅう。元気なうちはこうやって頑張ってしたいなと、全うしたいと思っている」
岡村さんは高知市にある平和資料館「草の家」の館長を20年間務め、今は名誉館長です。
2025年春、脳梗塞のため2カ月間入院。退院後は自分の運転で語りに行くことはできなくなりましたが、「今年も依頼がたくさんきているので頑張りたい」と話していました。
