「満州引き揚げ」は命がけだった。飢えと寒さ、馬賊に襲われる恐怖。親と生き別れた子どもを待ち受けていた中国残留孤児としての運命。生死の境をさまよい満州から引き揚げた男性はその体験を語り継いでいる。

5歳で故郷を離れ一家で「満州」へ

佐賀・基山町に住む松隈亞旗人さん(87)。5歳の時に故郷を離れ、一家で満州に渡った。

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松隈さん一家が渡ったのは、満州国鞍山。現在の中国遼寧省鞍山市で、当時、製鉄所が栄えた都市だった。

松隈亞旗人さん:
父は満州製鉄に務めていました。そこの報道班に行ったわけです。要するに宣伝とかするやつ。そこに入ったので、それに一家がついていったということです

アメリカ軍の空軍基地から度々B29が飛来し鞍山市にもやって来たというが、松隈さんは爆撃などの被害を受けることはなかった。

敗戦後の過酷な“満州引き揚げ”

しかし、松隈さん一家など満州にいた日本人の過酷な日々は、日本の敗戦を機に始まった。

終戦の翌年、松隈さん一家は満州から引き揚げることになる。飢えや寒さで亡くなる人も多く、命がけだった。親と生き別れた子どもたちは、中国残留孤児としての運命をたどった。

松隈亞旗人さん:
何日かかったのか分かりませんし、どのくらいの距離があったのかも分かりませんが、毎日毎日東に向かって貨物列車が進んでいた

陸路での移動中、馬賊と出くわし、危険を感じたこともあったという。

松隈亞旗人さん:
だーっとくるわけですよ、集団が。馬です。土煙を上げて。それがあったら、すぐに合図があって子どもたちや女の人はむしろ(敷物)の下に隠れました

難を逃れ、葫芦島から船で博多港に向かった松隈さん一家。あと1年遅れていたら、無事に帰国できたか分からなかったという。

忘れられない“祖母のおにぎり”

満州から故郷の基山町に戻ってきた時の写真が残されている。そこには1946年8月7日、着の身、着のまま帰国した家族の姿があった。

満州では白米が主食ではなかった。故郷に戻ってきて祖母がつくってくれたおにぎり。その味で日本に帰ってきたという安心感が湧いてきたという。

松隈亞旗人さん:
祖母が白いご飯を取り出して、梅干を入れて、握り飯をつくってくれたんです。それを食べたことは一生忘れないと思うほど美味しかったですね

生死の境をさまよいながら満州から帰国した一家。松隈さんは、「当たり前の日常の生活が当たり前にできること。それが平和かなと考えたりします」と語る。

「戦争体験を語り継いでいく」

戦後80年。2025年8月5日、基山町に住む人の戦争体験を語る講演会が開かれた。松隈さんは戦争体験を語り継いでいくことの大切さを訴える。

松隈亞旗人さん:
これからもずっと(戦争体験を語る講演会などを)続けてほしい。しかし、これはだんだんそれを話す人が少なくなっていくと思いますからね。機会がなくなるんじゃないでしょうか。だから今いろんなことを聞いたものをちゃんと自分のものとして、次の世代の若者や子どもたちに少しでも継承していく人がいたらいいなと、また継承していかねばならないと思います。私も含めて

(サガテレビ)

サガテレビ
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