2025年は戦後80年。2月、初めて子どもたちに自分の戦争体験を語った、今の中国東北部・旧満州に生まれ育った94歳の女性を取材しました。次の世代に託したい思いとは―。

2月18日、高知市の秦小学校。車で到着し、「お元気ですか」との問いかけに「おかげ様でなんとか」と笑顔で答える女性の姿が。高知市西秦泉寺に住む崎山ひろみさん(94)です。

秦小学校は娘・由美子さんの母校でもあります。25年以上、講演などで故郷・満州での戦争体験を伝えてきた崎山さんですが、小学生に話をするのは今回が初めて。6年生の担任・中村元紀先生(27)と挨拶するときも「もうドキドキしてる」と緊張を隠せない様子です。

6年担任・中村元紀先生:
「地域にそういう方(戦争体験者)がおられてお話をきける機会はめったにない」

崎山ひろみさん:
「戦争のむごたらしさ、不正義を、子供たちに知ってもらいたい。絶対国民も巻き込まれる」

体育館に集まったのは、6年生約120人。去年(2024年)、研修で崎山さんの話に感銘を受けたと言う中村先生は、自分たち若い教員にとっても大切な機会だと考えています。

講演が始まると、崎山さんは「今日は自分の地区の所でお話しさせていただけるのとっても嬉しいです。皆さんに理解していただけるようにお話したいと思いますので、よろしくお願いします」と挨拶しました。

崎山さんの故郷・満州は今の中国東北部にあり、ソ連と隣接する広大な地域でした。1924年、父・信義さんが新天地を求めて家族と満州に渡り、6年後に崎山さんが誕生。その翌年、歴史を変える出来事が起こります。

崎山ひろみさん:
「満州事変っていうのが起きまして、これは満州にいた関東軍という日本軍ですが、日本が仕組んだ戦争でした。戦争の始まりでした」

軍国主義の道を突き進んでいた日本は、領土拡大や資源確保のため中国東北部を占領し、1932年に満州国を建国。開拓移民を含む150万人以上の日本人が移り住みました。崎山さんも小学4年生頃までは首都・新京で家族5人と穏やかに暮らしていました。

しかし「日中戦争」が泥沼化。さらに1941年には太平洋戦争へと突き進みます。女学校に通っていた15歳の崎山さんも、学徒動員で軍事作業に駆り出されました。

崎山ひろみさん:
「『今日からは気球、風船の気球を作ってもらう。これは絶対秘密の軍事秘密だから、絶対親にも言ったらいけない』と。大きなお釜でグリセリンやなんか入れて、グラグラ煮る。日本に帰ってきてからいろいろ勉強したら、細菌をのせてソ連へ風船を飛ばすという計画だったらしいです」

結局、計画は実行されませんでしたが、崎山さんたちは知らされないままに人を殺傷する兵器を作らされていました。

そんな中、1945年8月8日にソ連が日本に宣戦布告。ソ連軍が満州へ侵攻し、崎山さんは初めて戦争の恐ろしさに直面したのです。

崎山ひろみさん:
「もう本当に“暴徒”。(ソ連兵が)略奪とか暴行とか、本当にしたい放題で暴れまくった。だから私たちは怖くて、逃げ回ってた。女の人は危ないから、髪の毛を切りなさいと言われて、全部ハサミで切って丸坊主になりました」

ソ連兵に襲われた時のため、常に自殺用の青酸カリを身に着けていた、死と隣り合わせの日々。一方で、日本軍はソ連侵攻の前に満州の南部に撤退し、崎山さんたち満州の日本人を置き去りにしたのです。

崎山ひろみさん:
「兵隊が逃げる時、後からソ連がスムーズに入ってこれないように、橋を壊したり道路を壊したりして逃げていった。開拓団とか一般の避難民の人たちが逃げようと思っても橋がないから(川を)渡ろうとしても流されて。食べるものもないし住む所もないから、避難の途中、かなりの方が亡くなった」

凍死、餓死、病死。冬は氷点下30度にもなる満州の地で、多くの避難民が犠牲になりました。そんな過酷な日々を生き抜いた崎山さんは、終戦から1年後の1946年8月、父の故郷・高知に家族と引き揚げました。

話をじっと聞いていた6年生たちは。

6年生:
「崎山さんの話を聞いて(戦争中は)人権を考えることもできないぐらい辛かったということが分かりました」

6年生:「戦争中は厳しかったと思うんですけど、そんな中で自分の楽しみはありましたか」
崎山さん:「ありましたよ。(冬に)スケートリンクができたら本当に楽しかったですし、中国人にすごいかわいがってもらって助けてもらった時もあります」

崎山さんは戦後50年以上経ってから、故郷・満州の負の歴史を学んできました。“お国のため”と子どもまで戦争に加担させられていたこと。中国人労働者を劣悪な環境で酷使したこと。敗戦の混乱で追い詰められた開拓民が、襲われたり集団自決したこと。

そんな戦争の悲劇を繰り返さないために崎山さんが大切にしてきたのが、戦後、17歳の時に学校で教わった「憲法」です。

崎山ひろみさん:
「憲法を見たら、もう戦争はしない、武器を持たないって書いてありました。本当に虫けらみたいな扱いを受けてきたから、やっと平和な時代を迎えることができたという感動で、私はその時のことをよう忘れませんね」

6年生:
「一番怖いのは、戦争の兵器であったり核兵器とかじゃなくて、それを作り出している人間が一番怖いんじゃないかなという考えを持ちました」

6年生:
「満州事変で、日本からも戦争を仕掛けたりして、中国の見方も変わった。戦争は平和を壊す良くないものなので、平和になればいいなと思います」

武力ではなく、交流し、理解しあう世の中へ。崎山さんが子どもたちに託す願いです。

中村元紀先生:
「教え子を戦場に送ったことがある方のお話を聞いたこともある。(それが)何よりも辛くどんなにきついものか聞きました。この子たちが兵隊になったり、戦地に赴くような、そういう日本、そういう未来は作りたくない」


講演から8日後。崎山さんの元に 子どもたちから手紙が届きました。

手紙:
「私は改めて平和であることの尊さを学び、戦争しても誰も幸せにはなれず、人が亡くなるだけということを学びました。今なお続いている戦争も、平和の大切さに気づき終わりを迎えられたなと思います」

崎山ひろみさん:
「こんな反応があるなんて。真面目にこんなに受け取ってくださってね。ありがたい、本当に。これ読みながら、晩、涙が出るかもしれん」

実は学校での講演後すぐ、もっと話が聞きたいと会いに来た子どもたちもいたのです。

崎山ひろみさん:
「何人かで。うちに遊びに来てって言ったら、『行っていいんですか?!』って、目を輝かせたから来て欲しいって言ってね。みんなでおしゃべりしようって。別に戦争の話じゃなくても。そういう中からいろんなことをつかんでもらえるんだと思ってね」

6月で95歳になる崎山さんに、子どもたちとの座談会という新たな夢ができました。

崎山ひろみさん:
「私はやっぱり、その時(戦時中)のたくさんの死んだ人を見て、戦争ってどういうことか知ってるから言える。だから下手な話ですけど、話していかないといけない。伝えていかないといけない」

戦後80年。満州の語り部はこれからも、戦争の記憶と平和の尊さを伝え続けます。

(高知さんさんテレビ)

高知さんさんテレビ
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