オウム真理教による地下鉄サリン事件から10日後の1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負った。
事件との関与が浮上した、オウム信者であり警視庁の現役警察官でもあるXは「警察庁長官を撃った」と証言したが、その供述はデタラメばかりで、結局不起訴となった。
一方、教団とは無関係で、2002年11月に拳銃で現金輸送車を襲撃して逮捕された男・中村泰(なかむら・ひろし)は「自分が長官を撃った」と供述。関係先からは拳銃や銃弾、偽造パスポートが発見された。警視庁捜査一課は供述の裏付けを進め、ついに中村は長官銃撃を全面自供した。
発生から30年を迎えた警察庁長官銃撃事件。
入手した数千ページにも及ぶ膨大な捜査資料と15年以上に及ぶ関係者への取材を通じ、当時の捜査員が何を考え、誰を追っていたのか、「長官銃撃事件とは何だったのか」を連載で描く。
(前話『供述通り放置自転車発見…長官銃撃“自供”の中村泰元受刑者は真犯人なのか?バッグからは火薬の残渣物も』はこちらから)
(『長官銃撃事件』特集ページはこちら)
中村は2008年4月14日、原の取り調べで自供に至った。その時、事件から既に13年が経過していた。当時中村は78歳である。

老いの中にあっても中村は10年以上前の出来事について非常に詳しく語っており、この時点の供述が最も信頼に足る供述であると言えるため、供述調書全文を以下に掲載する。
「暗殺計画を実行しました」
私は平成16年2月12日、警視庁で逮捕された銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反と、平成16年6月11日、大阪府警で逮捕された強盗殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反により併合審理を受けています。
この公判の一審において、私は無期懲役の判決を言い渡され、これを不服として控訴しましたが、平成19年12月26日、控訴棄却の判決を受け、上告しています。
この二つの事件とは別に、平成14年11月22日、愛知県名古屋市西区内のUFJ銀行押切支店において、けん銃を使用して現金輸送車を襲撃した事件で、平成16年10月26日、上告棄却の判決を受け、懲役15年の刑が確定しています。
私は、地下の武装組織『特別義勇隊』の結成を目指しましたが、結局、その計画は達成できませんでした。
しかしその結成を目指した我々同志は、特別義勇隊の結成理念に則り、1995年3月30日午前8時30分ころ、東京都荒川区南千住に所在するアクロシティにおいて、國松孝次警察庁長官暗殺計画を決行しました。

この暗殺は、出勤途上の國松長官をけん銃で狙撃する方法により完遂する予定でした。
狙撃は私が担当し、國松長官の体に3発の銃弾を撃ち込みましたが、國松氏は奇跡的に一命を取り留めました。

この暗殺の目的は、オウム真理教による一般市民を巻き込んだ無差別テロが発生する危険な情勢下において、日本警察が一致団結して同教団に対する捜査を推進させ、社会の不安を取り除かせることであり、その目的としては、地下鉄サリン事件という大惨事が発生するまでオウム真理教を放置していた警察の怠慢を糾明して、警察組織のトップに責任を取らせることがありました。
北朝鮮による拉致問題解決のために
それでは、國松孝次警察庁長官の暗殺計画を決行するまでの経過について、その概略をお話しいたします。
日本海沿岸における北朝鮮工作員による拉致事件の情報が伝えられている中、1987年、金賢姫工作員らに大韓航空機爆破事件が発生し、その翌年には金工作員の教育係として、李恩恵こと田口八重子という日本人拉致被害者の存在が明らかになりました。

私は、日本政府が、この機に乗じて、日本人拉致被害者を救出するため、他国と連携するか、あるいは単独でも、北朝鮮に対して強硬な働き掛けをすることを期待していましたが、日本政府は、相変わらず腰が引けた対応に終始し、自国民を見殺しにする状態でいました。
この状況を打破するためには、地下武装組織として結成を目指した我々『特別義勇隊』の出番が必要になることを考えました。
そして、具体的な実践活動として計画したことは、朝鮮総聯幹部を略取して金日成主席に対し、邦人拉致被害者との身柄交換を提起することでした。

金日成主席が、直ちにこの要求に応じるとは思えませんでしたが、眼目は報道機関に、可能な限り我々の行動をセンセーショナル、かつ持続的に報道させることでした。
この報道等により、拉致問題に対する世間の関心を集め、さらに、世論を喚起させて政府に圧力をかけ、拉致問題の解決を国家の主要な外交政策の一つに位置づけさせることで、我々の目的は達成されると考えていました。
野村秋介氏と接触
私は、この作戦実行のため、アメリカで武器や弾薬等の戦闘用資機材を調達して、船便を使って日本国内に持ち込み、物的な面の準備は整う目途がつきつつありました。
そこで、私は、私と同時期、千葉刑務所に服役していた野村秋介(※筆者注:新右翼の活動家で1993年10月に朝日新聞東京本社で自殺)に人材の斡旋を依頼することを考えました。

野村は経団連ビル占拠事件を起こすまでは、秘密裡に行動していたようでしたが、この事件によって行動右翼として広く知られて公安警察の監視下に置かれるようになると、いわゆる武闘派的な行動から離れて、映画製作、著書出版、参議院選出馬等の広報宣伝活動に転じたようでした。
それでも、彼の過激で武闘的な実力行使行動に参加できることを期待して、集まってくる有志がいることを私は予想していました。
そこで、野村秋介の下では必要とされないこれらの武闘的な有志を私が引き受ければ、お互いに好都合だと思い、野村に人材斡旋の話を持ち掛けていました。
しかし、後に分かったことですが、そのころ、野村は既に自分の死の問題に専念し始めていたため、私への対応は、おざなりなものに過ぎないようでした。

結局、1993年10月20日、野村の自決により、私の隊員獲得の目論見は全く成果が得られないまま潰えてしまいました。
私は、彼の死により精神的な打撃を受けて士気が衰え、思考も二転三転した挙句、特別義勇隊の人材確保について挫折してしまいました。
特別義勇隊は、もとより利益や名声を求めるものではなく、義憤と使命感に基づくものでした。
我々は表だった賞賛など全く期待せず、あくまで影の戦士として、地下活動に徹する覚悟でしたが、しかし、何の成果も挙げることなく潰えてしまうことになりました。
北朝鮮の核開発
結局、日本政府が本格的に拉致問題の解決に乗り出したのは、特別義勇隊の計画が構想された時期からかなり後のことでした。
1993年3月、北朝鮮は国際原子力機関の査察に反発して、突然、核拡散防止条約から脱退を宣言し、翌94年5月、寧辺の原子炉から大量の使用済み核燃料棒を取り出しました。

つまり、北朝鮮は、燃料棒から取り出したプルトニウムを原料として、核爆弾の製造に着手するという意思表示を表明したことになります。
この情勢に対抗して、アメリカのクリントン政権は、北朝鮮の核施設に対するピンポイント攻撃の作戦計画を立て、在韓米人を避難退去させるなどの具体的措置を始め、まさにアメリカと北朝鮮は、一触即発の事態となっていました。

私は、この機会にアメリカは、北朝鮮を軍事的に叩いて将来の禍根を取り除き、さらに金日成体制を崩壊させる糸口を作るべきだと考えていました。
こうした緊迫した情勢下になると、アメリカは、何かの後押しさえあれば、軍事行動に踏み切る可能性は十分にあると私は考えていました。
思案した末、私は、アメリカに対して北朝鮮攻撃のきっかけを作るため、北朝鮮武装工作員による破壊活動と思わせる横田基地に対するゲリラ攻撃、在日米軍司令官に対する狙撃暗殺などが効果的であると考えつき、その具体策を練り始めました。
私は、以前アメリカにおいて、偽装工作に用いるために、北朝鮮製のカラシニコフAKS47を入手することを試みましたが、結局、北朝鮮製のこの銃を手に入れることはできませんでした。

このころ、韓国国家安全企画部(ママ)の職員から、朝鮮人民軍記章を手に入れたのも、この種の工作に備えるためのものでした。
そこで、考え付いたことが、事件現場にこの記章等を遺留して、北朝鮮工作員による犯行と見せかける偽装工作でした。

ところが、1994年6月、カーター元大統領が訪朝して金日成主席と会見し、寧辺の原子炉稼働を凍結する代わりに軽水炉の建設を援助するという米朝交渉が始まり、ひとまず核危機は回避されてしまいました。
松本サリン事件
こうした中、長野県松本市内で化学兵器のサリンによる殺傷事件が発生しました。
この事件について、私は、北朝鮮工作員が日本国内に密かに持ち込んでいたサリンを実戦配備していたところ、緊張緩和に伴い、本来の隠匿場所に移動する途中に起きた事故と考えました。

また、放出されたサリンの量は、本格的な製造設備のある施設において生産される相当の分量であったため、私は、松本サリン事件は、北朝鮮のような国家的組織の関与があるはずだと考えていました。
それから間もなく、金日成主席が死去しました。

私は国家主席の突然の死により引き起こされる混乱の結果、拉致問題やサリン事件等を含む様々な国家機密が暴露されることを期待しましたが、結局、金日成の息子の金正日が独裁体制を継承することとなり、私は、これでは権力を世襲する中南米の独裁国家と同じであり、まさに、人民の敵ではないかと北朝鮮に対する嫌悪感を一層強めました。
私は、その後もずっと、サリン⇔北朝鮮という相関図を描いていましたが、1994年も暮れになったころ、松本サリン事件はオウム真理教による犯行であるという怪文書が流布されていることを聞き付けました。
当初、私は、宗教団体にサリンのような化学兵器を製造できるはずがないと否定的な見方をしていましたが、その一方ではもし怪文書の内容が事実であるとしたならば、技術指導等に北朝鮮の関与があると考えていました。

さらに、1995年1月、読売新聞が山梨県上九一色村のオウム施設付近から、サリンの成分が検出されたという記事を掲載しました。
私は、読売新聞の記事の真偽を見極めるため、情報収集に努めました。

そして、私が導き出した推論は、
(1)
オウム教団は、 第7サティアンという
化学兵器工場を建設し、トン単位のサリンを製造して貯蔵している
(2)
サリン爆弾を搭載するため、軍用ヘリコプターをロシアから購入している
(3)
小火器は相当量輸入している
(4)
対装甲車用ロケットランチャーくらいは入手している
(5)
武装集団を組織している
(6)
近い将来、化学兵器を用いてクーデターを実行する
というものでした。
警察庁への諜報活動
その一方で、この非常事態における警察の対応を調査するため、私は、警察庁、特に警備局を対象として潜入諜報活動を始めましたが、当局は、通常業務を続けているに過ぎないといった感触で、危機感らしいものはなく、容易に内部情報を収集することに成功しました。
こうした状況から、私は、おそらくオウム真理教は、日本に敵意を抱く北朝鮮に使嗾されており、このオウム真理教の凶行を阻止するためには、我々特別義勇隊が実力行使に訴えるほかに手段はないと考え、その実行を決断しました。

具体的には、深夜、上九一色村のオウム施設を襲撃して化学兵器工場の第7サティアンを爆破して、警察や自衛隊が介入せざるを得ない状態を作り出すことでした。
しかし、現実問題として、未組織で、火器の大部分を既に投棄していた特別義勇隊には、ほとんど戦闘能力らしきものはありませんでした。
取り急ぎ、爆薬や人員の調達を模索したものの、気は焦るばかりでした。
地下鉄サリン事件
こうした中、1995年3月20日、地下鉄サリン事件が発生したのです。

ところが、オウム真理教の武装部隊による攻撃はなく、比較的少量のサリンが自然揮発により散布されただけで、地下鉄車両という密閉空間でありながら、死者が少なかったという現実に戸惑いを覚えました。

さらに、3月22日から始まったオウム真理教に対する警察の一斉捜索でも、サリンや銃器は全く押収できないばかりか、オウム真理教は、武力による抵抗もせず、私は、オウム真理教の武装部隊は既に首都圏に潜入しているものと判断しました。

この状況から、私は、この憂慮すべき事態を放置していたならば、再び一般市民を巻き込む無差別テロが発生する危険がある。警察は、オウム教団の武装解除と真相究明をすべきだ。
そのためには、全国警察が速やかに一致団結し、強固な布陣を敷いて社会不安を取り除かなければならない、ということを考えていました。
そこで導き出した結論が、全国警察のトップである警察庁長官を暗殺し、それをオウム真理教による犯行に見せかけて、全国警察をオウム真理教捜査に向けて奮起させるということでした。
警察の怠慢を糾明
また一方では、松本サリン事件や地下鉄サリン事件を巻き起こしたオウム真理教を放置していた警察の怠慢を糾明して、そのトップに責任を取らせるという意味もありました。

さらに、オウム真理教の凶行を阻止することを模索していながら、時期を逸して、未曾有の重大事件を起こさせてしまったという我々の悲憤の矛先が警察に向かったという感情的な要素がなかったとは言えません。
こうして、我々の行動は、國松孝次警察庁長官を暗殺することに移行していったのです。
中村 泰 (指印)
【秘録】警察庁長官銃撃事件55に続く
【執筆:フジテレビ解説委員 上法玄】
1995年3月一連のオウム事件の渦中で起きた警察庁長官銃撃事件は、実行犯が分からないまま2010年に時効を迎えた。
警視庁はその際異例の記者会見を行い「犯行はオウム真理教の信者による組織的なテロリズムである」との所見を示し、これに対しオウムの後継団体は名誉毀損で訴訟を起こした。
東京地裁は警視庁の発表について「無罪推定の原則に反し、我が国の刑事司法制度の信頼を根底から揺るがす」として原告勝訴の判決を下した。
最終的に2014年最高裁で東京都から団体への100万円の支払いを命じる判決が確定している。