オウム真理教による地下鉄サリン事件から10日後の1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負った。
事件との関与が浮上した、オウム信者であり警視庁の現役警察官でもあるXは「警察庁長官を撃った」と証言したが、その供述はデタラメばかりで、結局不起訴となった。
一方、教団とは無関係で、2002年11月に拳銃で現金輸送車を襲撃して逮捕された男・中村泰(なかむら・ひろし)は「自分が長官を撃った」と供述。関係先からは拳銃や銃弾、偽造パスポートが発見された。警視庁捜査一課は供述の裏付けを進め、ついに中村は長官銃撃を全面自供した。
発生から30年を迎えた警察庁長官銃撃事件。
入手した数千ページにも及ぶ膨大な捜査資料と15年以上に及ぶ関係者への取材を通じ、当時の捜査員が何を考え、誰を追っていたのか、「長官銃撃事件とは何だったのか」を連載で描く。

(前話『警察庁長官銃撃を“自供”した男が語った動機“北朝鮮への反発”と地下鉄サリン事件受けた「警察の怠慢を糾明」』はこちらから)
(『長官銃撃事件』特集ページはこちら)
2008年4月14日、中村泰は自らが警察庁長官を銃撃するに至った動機について、北朝鮮による日本人拉致やオウム真理教による松本サリン事件・地下鉄サリン事件などが背景にあると語った。その翌日、犯行の詳細について語った4月15日の中村供述の調書を掲載する。
「長官を暗殺しオウムの犯行に見せかける」
(2008年4月15日の供述調書)
…前略…
地下組織「特別義勇隊」の結成を目指した我々は、1995年3月30日午前8時30分ころ、東京都荒川区南千住に所在するアクロシティにおいて、國松孝次警察庁長官を狙撃により暗殺する行動を決行しました。
狙撃者は、私こと中村泰であります。
私は、國松長官を暗殺するため、國松氏の体に3発の銃弾を撃ち込みましたが、同氏は、奇跡的に一命を取り留めました。

それでは、國松孝次警察庁長官の暗殺計画を決行した状況について、その概略をお話しいたします。
1995年3月20日、都内において、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生し、翌々日の3月22日、警察は、オウム真理教施設に対して一斉捜索を開始しました。
ところが、オウム真理教は、この一斉捜索に対して武力による抵抗はせず、また、警察は、オウム真理教の幹部等を逮捕できないばかりか、サリン等の化学兵器や銃器、弾薬を全く押収できないという無残な有様でした。

この推移を見た私は、オウム真理教の幹部やそれらが指揮する武装部隊は、既に首都圏に潜入し、近い将来、一般市民を巻き込んだ無差別テロが頻発する危険を危惧していました。
私と同志のハヤシは、この非常事態に全国警察は一致団結し、オウム真理教団の武装解除と徹底した真相究明をしなければならないと考えていました。

そして、様々な議論を経て導き出した結論が、警察庁長官を暗殺し、それをオウム真理教の犯行に見せかけることにより、全国警察を一致団結させるそれにより、全国警察が、オウム真理教に対して徹底した捜査を推進することになる、ということでした。
国松長官宅の下見
また、暗殺方法について思案した結果、國松長官が出勤のため、私邸を出て公用車に乗り込むときに狙撃して暗殺するということにしました。
なぜならば、警察庁長官の出勤時間は、特別の事情がない限り一定しているはずであり、その出勤時を狙うことが最良の方法と判断したからでした。
方針が決まると、我々は、1995年3月23日から國松長官の出勤時の視察を開始しました。

すると、まさに予想したとおり、午前8時30分ころ、國松長官が出勤のため、私邸のEポート前から長官公用車に乗り込む姿を確認しました。
また、この際秘書官は、長官公用車がEポートに到着すると、助手席から降りてEポートの玄関付近から通用口方向を観察し、玄関から出てくる國松長官を迎えることも把握しました。
この視察を開始する前の1995年1~3月上旬にかけて、私は、オウム真理教に関する情報を得るため、警察庁内部に対して潜入諜報活動をしていましたが、この活動の中で、副産物として入手した情報の一つが、國松長官の私邸の住所でした。

この私邸の住所に関する情報は、杉田和博警備局長室あるいは垣見隆刑事局長室において入手した記憶が強いのですが、いずれにしても、その時点では、國松長官を狙撃することなど、全く考えていない中で得た情報でした。
1995年3月に入って間もないころ、私は浅草で買い物等の用事を済ませた後、國松長官が住むという南千住を訪ねてみました。
それは、警察庁長官ともあろう人が、ドヤ街で有名な南千住に住んでいることに違和感を覚えていたからでした。
南千住の町並みは、私が予想したとおり、商店と住宅が混在した庶民的な下町という雰囲気でしたが、アクロシティだけが異世界のような風景を呈し、下町からアメリカの都市に迷い込んだような感じでした。
アクロシティの中に足を踏み入れた私は、Eポート1階の郵便受けの602号室用のポストで「國松」という記載を確認しました。
念のため、通用口から出て来た居住者と入れ替わるようにEポート内に入ると、通用口近くのエレベータで6階に上がり、エレベータを出てすぐのところにあった602号室前で「國松孝次」と書かれた表札を一瞥し、國松長官の居住を確認していました。
事件1週間前に拳銃の準備
この特に目的もない視察が、偶然にも、3月23日の國松長官出勤時の視察を容易にさせたのです。
3月23日、國松長官の出勤を視察した帰りがけ、私は、その当時、浅野健夫名義で契約していた新宿駅西口の安田生命保険相互会社の地下の貸金庫に赴きました。

そして、この貸金庫の中に保管していた10丁のけん銃や1000発以上の実包の中から、中距離用のけん銃として、8inchの銃身で黒色仕上げのColt社製.357Magnum口径Python型Federal社製.357Magnum Nyclad Hollow Point弾を取り出して準備しました。
このけん銃については1986~87年頃、アメリカ合衆国のCalifornia州Los Angels市Firestone Boulevardに所在したGun Shop「Weartherby」でTeruo KOBAYASHI名義で取得したCalifornia州発行のdriver lisenceを提示して購入し、その後、船便を使って国内に持ち込んだ銃でした。

また、使用実包については、1988年~89年にかけて、珍しい弾薬が販売されるGun Showで購入したものでした。
Gun Showとは、銃器や弾薬のほか、これらにまつわる様々な商品が販売される特設市場のようなものです。
これまで私が購入したNyclad弾丸は、Federal社のものだけで、一箱50発入りのものを数箱買い、その中から何発か抜き出しては、機械の隙間等に押し込んで船便で日本国内に持ち込みました。

結局、合計20発くらいは国内で保管していましたが、いずれもナイロン被覆部分が濃紺の弾丸でした。
このほか、貸金庫からbackup gun として、シルバー色Smith & Wesson社製No.6906と適合実包9mm Luger弾も取り出し準備しました。
狙撃計画の決定
國松長官の出勤時の視察は、土日を除いた平日に続けていました。
この視察の中で、私は、長官公用車は、國松長官の出勤時間よりも早目に現場付近に到着して時間調整し、國松氏の出勤間際にEポートの玄関先に到着するはずである。すると、時間調整のため待機している長官公用車の動きを見ていれば、Eポート付近で目立った行動をする必要がない、という考えが浮かびました。
その結果、Eポート玄関先に到着する前に、Bポート東側路上で待機している長官公用車を発見したのです。
視察を始めた翌日の24日ころには、長官公用車の待機場所が確認できたことから、それ以降は、この公用車の動きを見ることで、狙撃地点で目立った行動をとることがなくなりました。
数日の視察を経て、3月28日朝、私とハヤシは、出勤時の國松長官を狙撃することを決定しました。
決行予定日に2人の男が長官宅を訪問
この日、視察を始めてから最も風の強い日でした。
ところが、狙撃地点につくと、Eポートの玄関近くに立って、國松長官の出勤を待っているらしい2人のコート姿の男がいることに気が付きました。
この2人の男は、全体的な様子から警察関係者と判別がつき、しかも、南千住署の警備係員よりは上級の立場にある者と思われました。
そして、この2人の男は、國松長官が玄関から出てくると、國松氏に話し掛け、國松氏は再び玄関方向に戻るという状態でした。
このため、國松長官は、通常の出勤時間よりも遅れて出勤することとなりました。
この予期せぬ出来事から、この日の狙撃は中止することとなり、私は、ハヤシかハヤシから指示を受けた者が、あらかじめ逃走用に用意した自転車をAポートの駐輪場に戻すと、ハヤシが待機するNTTの支店方向に向かいながら、無線で中止を伝えました。
我々としては、警察庁の執務時間ではなく、わざわざ警察関係者が、國松長官の出勤前に面会に来るとは、余程緊急な案件があったと考えました。
サブマシンガンも用意
それは、多分、身辺警護に関することで、今後、警備態勢が強化されるものと推測し、警備の強化によってSPが配備されたならば、SPもろとも撃ち倒すほかはないという結論に至り、この日の帰りがけ、新宿の安田生命保険相互会社の貸金庫からsubmachine gunのKG-9を取り出して準備しました。submachine gunの狙撃ポイントとしては、アクロシティ内の広場にある吹き抜けの鉄柵に銃を托すか、体を預けて狙撃するのが最適と判断しました。

それに加え、3月28日、長官公用車のナンバーが、それまでの品川33り…から別のナンバーに替わっていたことが、私とハヤシの間で話題になりました。
ナンバーが変わったことで車の印象も変わったように思えましたが、替わる前も後も黒色プレジデントで、全体的な雰囲気から長官公用車と判断しました。
次の決行日として選んだ日が3月30日でした。
事件当日
この日の朝、私は、当時住まいだった小平市回田町158番地○(編集部注:実在のアパート名)101号室から、バスで武蔵小金井駅か、あるいは国分寺駅に行き、そこから電車でJR西日暮里駅に向かい、午前8時前にはJR西日暮里駅に着いて、この駅前付近の道路でハヤシの車を待っていました。
間もなく、ハヤシの軽自動車が、JR西日暮里駅の側道を進行してきたので、その助手席に乗り込みました。
このとき、私は、コート、スーツ上下、ワイシャツ、ネクタイ姿で、肩にはショルダーバッグを掛け、ショルダーバッグ内には、6発のFederal社製.357Magnum Nyclad Hollow Point弾を装填した8inch銃身のColt社製Pythonと予備弾丸6発を入れたQuick Loaderが入っていました。
また、左腰には、backup gunとしてS&W社製No.6906を装着し、ベルトには、この銃の予備弾倉を入れたpouchというケースを取り付け、スーツの下には肩から黒色ナイロン製長銃身用のホルスターを掛けていました。
乗車後、私は、ハヤシが携行したsubmachine gunのKG-9とガムテープで、上下互い違いに結束した9mm Luger弾32~34発入りのsubmachine gunの弾倉2個を受け取ると、ショルダーバッグ内のPythonが入っているポケットとは別のポケットに入れました。
このほか、私がPython用に設計製作した組立式の銃床も、私かハヤシのどちらかが用意して来ていました。
この組立式銃床は、より安定した精度の高い射撃をするため、射撃時の衝撃を肩で受け止めるように製作したもので、Pythonも銃把の両側側盤の上端をカットし、さらに、銃把の両サイドに埋め込みボルトを3個ずつ付けて、瞬時に着脱ができるように改造していました。
組立式銃床は、けん銃の全長とほぼ同じくらいの長さがありましたので、この銃床を装着して射撃をしていると、一見した感じでは、ライフルで射撃をしているように見えたかもしれません。
ハヤシは、西日暮里駅から荒川警察署方向へ車を走らせ、午前8時10分前後ころ、アクロシティ南側に位置する神社付近に到着すると、私は降車しました。
(※取り調べを行った警視庁捜査一課・原警視の注釈)
この時、本職は、供述人に対して警視庁捜査管理システムのデータベースマップにより出力した「アクロシティ」周辺の地図を提示し、同地図で説明しながら供述するように求めた。
銃撃直前の様子
私は、小雨の中、傘を差してアクロシティ東南角の三叉路付近を行き来しながら長官公用車の到着を待ち、次いで、Bポート北側の階段脇辺りに移動しながら待機していました。
間もなく、長官公用車がアクロシティ東側の路上を南から北に向かって走行してきたことに気付きました。
長官公用車は、いつもどおり、Bポートの東側路上に停車し、私からは、秘書官が車載電話で通話している様子が見えました。
地図で説明しますと、A付近が、長官公用車が到着して停車していた地点1付近が、長官公用車到着時、私が待機していた地点となります。

このころ、この日に限ってのことだったかもしれませんが、アクロシティ東側にある水道局給水管理所のアクロシティ側の川沿いに、警戒員が一人立っていることをハヤシが確認し、長官公用車の到着と前後して、私に無線で伝えてきました。
午前8時20分ころになって長官公用車が動き出すと、私は次の行動に移りました。
それは、3月28日、Aポートの自転車置場にチェーン錠を掛けて置いていた自転車を引き出して狙撃地点に向かうことでした。
私は、傘で顔を隠すようにして自転車を押しながら、正面階段方向に向かい、正面階段手前の少し狭くなった箇所を通過して、階段脇のスロープを上がっていきました。
この当時、スロープの手前には「あさひ銀行」がありました。スロープを上がって広場に出ると、管理棟の裏を通ってFポート方向に進みました。地図では、プライムハウスと記載している建物が管理棟になります。
そして、私は、Fポートの外壁にGポート方向に頭を向けるようにして、スタンドを降ろさずに自転車を立て掛け、傘は、畳んで自転車の前カゴに入れました。
地図で説明しますと、2付近が、自転車を置いた地点、3付近が、自転車を立て掛けた地点、→が、私が自転車を押していた経路です。

次に、私はFポート下の空間のような場所に向かい、ここで待機していると、Fポートから出て来た男に遭遇しました。私は、その男に背を向けるようにして、Fポート庇付近まで出て、空を見上げて傘がいるかどうか空模様を窺う素振りをして、その男と顔を合わせないようにしました。
その男の後姿を見送って狙撃地点に着くと、私は、ショルダーバッグを降ろし、コートの左ポケットに入れていた人民軍記章と韓国硬貨を取り出して、記章は足元付近に、落とし、硬貨は左方向のFポートの空間方向へ投げました。
この記章は、1994年前半、大阪の飲食店において、韓国安全企画部(ママ)の職員自称シン・スンピルから入手したものでした。
一方、コートの右ポケットには、6発の予備弾を装填したQuick Loaderを入れていました。
このときの私の服装は、灰緑色の柔らかい生地の登山帽、メガネ、白色布製マスク、濃紺のコート、黒っぽいスーツ上下、ビジネス靴様のウォーキングシューズでした。また、スーツの下は、目立たない色の有り触れたワイシャツにネクタイ姿で、両手には白色綿製の手袋を肌色に染めてはめていました。
地図で説明しますと、4が、狙撃地点、Bが、長官公用車が停車していた地点、Cが、警戒車両が停車していた地点になります。

私は、着ていたコートのボタンを外すと、バッグ内から8inch銃身のColt社製 Pythonを取り出し、それに組立式銃床を取り付けて右手で持ち、コート内側で左腕と左体側で挟んで、國松長官の出勤を待ちました。
狙撃地点からEポートの玄関の出入りは見えず、視界に入るのは、Eポート玄関付近の植込みでした。
私は、まず、この植込みから人の姿が見えたときに國松長官であるか否かを確認し、次に、長官公用車の左後部ドア横で立ち止まることで、はっきり國松長官と確信して狙撃する予定でいました。
そのため、Eポートの玄関植込みから國松長官の姿が見えたとき、照準を長官公用車の後部左側ドアに合わせ、國松氏が照準内に入った瞬間に狙撃する予定でいました。
銃撃
私は、緊張の中、玄関付近の植込みや長官公用車の後部左側ドア付近に集中していました。ところが、次の瞬間、目の前を遮って長官公用車の方向に向かう2人の男が視界に入ってきたのです。
私は、一瞬、まずい、狙撃の邪魔になると思いましたが、よく見ると、その2人の男は國松長官と秘書官でした。國松長官は、秘書官が差し出す傘に入り、私から見て右側が國松長官、左側が秘書官が位置するようにして、長官公用車に向かっていました。

私は、國松長官であることを確信すると、國松氏の上半身中心部に照準を合わせ、連続して2発の弾丸を発射しました。
1発目は上半身中心部に撃ち込み、続いて、國松長官が腹這いに倒れて接地する直前に左腰部付近に2発目を撃ち込みました。
さらに、3発目を撃ち込もうとしましたが、秘書官が、とっさに國松長官の全身を隠すように覆いかぶさったため、3発目は、覆いかぶさった秘書官の体からはみ出た國松氏の右足大腿部の股付近に撃ち込みました。つまり、撃ち込む部位が、その部位しかなかったということです。
ところが、3発目を撃ち込むと、果敢にも秘書官は、匍匐前進するようにして國松長官の体を高さ50~60センチくらいある植込みのコンクリート製基盤の陰に引き込んだため國松長官の姿は見えなくなり、私は、それ以上、國松長官に向けて撃つことができなくなってしまいました。
従いまして、4発目は、長官公用車の前方に停車していた警察車両から飛び出して来た警戒員に対し、威嚇の意味で撃ったものでした。この警戒員は、私服で、地味な色のコートを着ていました。

また、川沿いにいた警戒員も右方向から走って来る様子が植込み越しに窺え、すぐに國松長官が倒れていた場所に伏せたことが分かりました。この警戒員は、長官公用車の出発に備え、既にEポート北側道路付近まで来ていたようで、前方の警察車両に乗車していた警戒員よりも、幾分早く到着したような感じでした。この2人の警戒員は、全く反撃してくる様子はありませんでした。
自転車で逃走
私は、Pythonから組立式銃床を外し、ショルダーバッグのファスナー付きのポケットにPythonをしまい、組立式銃床もいずれかのバッグのポケットにしまうと、たすき掛けにしてバッグを背負い、Fポートの外壁に立て掛けていた自転車に乗りました。
私は、Fポート沿いにGポート方向に自転車を進め、Gポートの手前を左折するとき、速度を緩めて隅田川方向や後方からの追撃を窺いましたが、その気配は全くなかったので、そのまま左折して加速しました。このとき、管理棟の前に、管理人らしき人物が立っているのが見えました。

私は、Gポートとスポーツ棟に沿って南下し、Dポート前のスロープを下ってアクロシティの外に出ました。スロープを下るときは減速し、道路に出たところで隅田川方向からの追撃を確かめましたが、その気配はありませんでした。
しかし、このとき、左方向から歩道を歩いて来た浮浪者風の男と接触しそうになり、若干ヒヤッとした覚えがあります。
地図で説明しますと、5が、隅田川方向や後方からの追撃を窺った地点、6が、浮浪者風の男と接触しそうになった地点、△が、管理人が立っていた地点、→が、私が自転車で逃走した経路になります。

私は、アクロシティを出ると左折して直進しました。私は、事故を起こさないように気を付けていましたので、普通よりやや速い程度のスピードで、ハヤシが待機する場所に自転車を走らせました。
(※原警視による注釈)
このとき本職は、供述人に対して提示した前期地図に、供述人が「長官狙撃時の状況見取り図」と題して署名・指印をして返還したため本調書末尾に添付することとした。
“同志”ハヤシと合流
自転車の走行コースとしては、アクロシティを出てから途中曲がることなく道路に沿って直進しました。
そして、突き当たりの千住間道に出る直前の右側になる喫茶店らしき建物の壁に自転車を立て掛けて放置しました。

ハヤシは、自転車を放置した場所と千住間道を挟んだ反対側にあるNTTの支店の出入口付近に軽自動車を停めて待機していたようでした。私は、自転車を放置して千住間道を横断するとき、何台かの車をやり過ごしたため、道路の横断に少し時間を要しましたが、その間にハヤシが運転する軽自動車は道路に出て来たので、私はすぐに助手席に乗り込んで、JR西日暮里駅を目指しました。
(※原警視による注釈)
このとき本職は、供述人に対し、警視庁捜査管理システムのデータベースマップにより出力した「NTT荒川ビル」周辺の地図を提示し、同地図に「自転車放置地点」と「逃走用自動車待機場所」を書き加えるように求めたところ、供述人は、7が、自転車放置地点、8付近が、逃走用自動車待機地点と書き加え、さらに、上記地図に「逃走経路の説明図」と題して署名・指印して返還したため本調書末尾に添付することとした。
電車とバスで自宅へ
JR西日暮里駅前でハヤシの軽自動車から降車すると、私は、着ていたコートを車内に残してスーツとネクタイ姿になり、それにショルダーバッグを持って、JR西日暮里駅から山手線内回りでJR新宿駅に向かいました。
一刻も早く、狙撃時に使用あるいは携行した銃器・弾薬類を隠匿するためでした。
私は、JR新宿駅で降りると、西口の安田生命保険相互会社の貸金庫に入り、携行していた8inch銃身のColt社製Python、Python用の組立式銃床、Quick Loader、S&W社製No.6906、No.6906の予備弾倉1個を収納したpouch、submachine gunのKG-9、KG-9の弾倉2個を収めました。
その後、帰宅のため、JR新宿駅から中央線下り電車に乗りました。既にラッシュ時間は過ぎており、座席に腰掛けた私のことなど、周りの乗客は、定年退職後のしがない男としか見えなかったと思いますが、私の胸中は、昂ぶるものを感じていました。
JR新宿駅から30分くらいで武蔵小金井駅に着くと、東小金井駅よりの跨線橋を渡って北口に向かいました。この跨線橋を渡るため、南口の改札前を通ったとき、この改札に制服警察官が立っていることに気が付きました。また、跨線橋の階段を上がった通路にも制服警察官が立っていました。この警察官は、制帽ではなく、機動隊員がかぶるような作業帽をかぶっていたので、私は、機動隊までが動員されているのかと推察しました。
さらに、跨線橋を渡って北口の改札を出ると、そこにも制服警察官が立っていました。私の目に入っただけでも、武蔵小金井駅の内外には5~6人の警察官が配置されていました。
私は、武蔵小金井駅北口の改札を出ると、ロータリーを挟んだ反対側のバス停から京王バスに乗車して回田町のバス停に向かいました。途中、玉川上水に沿った五日市街道をバスが走っているとき、交差点でパトカーと制服警察官が警戒している光景を目撃し、こんな所まで警察官を配置しているのかと意外に感じた覚えがあります。
私は午前11時前後に住まいだった○(編集部注:実在のアパート名)101号室に戻り、当日からしばらくは、なるべく在宅してテレビに囓り付きになり、新聞や週刊誌等を読み漁って國松長官暗殺に関する捜査を見守っていました。
凶器を海に遺棄
ややほとぼりが冷めてきた4月上旬の夕刻、私は、新宿の安田生命保険相互会社の貸金庫から、狙撃に使用した8inch銃身のColt社製Python、残ったFederal社製.357Magnum Nyclad Hollow Point弾10数発を取り出しました。公判に提出された証拠書類によれば、この日は4月11日でした。
つまり、貸金庫の営業が終了すること、これらの銃器・弾薬を取り出して、夕方のラッシュ時間に紛れて隠密裏に移動させて廃棄するためでした。
私は、銃器・弾薬を取り出してバッグにしまうと、JR新宿駅から山手線を使ってJR浜松町駅に向かい、このバッグを浜松町駅北口のコインロッカーに収めて隠しました。それは、大島行きの東海汽船が出航するまで銃器・弾薬を持ち歩くことが危険だと感じたからでした。
私は、それ以前にも、特別義勇隊の結成を目指して集めた銃器が不要になったことに伴い、大島行きの東海汽船のデッキから、深夜、海中に投棄して廃棄したことがありましたので、今回の作業も特にまごつくことはありませんでした。
出航時間が近づくと、私は、ロッカーからバッグを取り出して竹芝桟橋に行き、最も安いクラスの乗船券を購入して乗船しました。私は、船内の広間でバッグを枕にして寝そべりながら、乗船客が寝静まる深夜を待ちました。そして、深夜、午前1時~2時ころになってデッキに出ると、バッグから、紙袋に入れたけん銃と、また別の紙袋に入れた弾丸を次々と海中に投げ込んで、証拠の隠滅を図りました。
翌朝、大島に着いた私は、島内観光をして時間を潰し、その日の夜には竹芝桟橋に引き返し、JR浜松町駅から小平市の住まいに戻って、引き続きオウム真理教に対する警察の捜査状況に注目していました。
「すがすがしい気持ち」
すると、國松長官が狙撃されて以降、全国警察は、一丸となって幹部信者を次々と逮捕しては、オウム真理教の真相を解明するなど、捜査を著しく進展させ、ついに1995年5月16日には、警視庁が、首魁・麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕したのです。

この首魁の逮捕を知り、私は、オウム真理教に対する我々の闘争も一区切りついたという感慨を抱き、久しぶりにすがすがしい気持ちでLos Angelsに飛びました。
以上の内容は、私の記憶に基づいて自発的に供述したものであり、誘導や脅迫に基づいて供述したものではありません。
今後、供述した内容について、否認に転じたり、故意に供述を変遷させたりすることはありません。
それは、この行動が、信念に基づくものであり、十分成果を挙げたので、何人に対しても、毫も恥じるところはないからです。
中村 泰 (指印)
【秘録】警察庁長官銃撃事件55に続く
【執筆:フジテレビ解説委員 上法玄】
1995年3月一連のオウム事件の渦中で起きた警察庁長官銃撃事件は、実行犯が分からないまま2010年に時効を迎えた。
警視庁はその際異例の記者会見を行い「犯行はオウム真理教の信者による組織的なテロリズムである」との所見を示し、これに対しオウムの後継団体は名誉毀損で訴訟を起こした。
東京地裁は警視庁の発表について「無罪推定の原則に反し、我が国の刑事司法制度の信頼を根底から揺るがす」として原告勝訴の判決を下した。
最終的に2014年最高裁で東京都から団体への100万円の支払いを命じる判決が確定している。