しかし、どう考えても予算が足りない。そこで、国会議事堂はとりあえず木造の仮の建築ですますことになった。

木造の仮建築は焼失する

これが明治23年11月に竣工したが、翌年1月に焼失してしまったので、直ちに第二回仮議事堂が建設されたが、これも大正14年焼失してしまった。直ちに再建されこの第三回仮議事堂は昭和11年本建築ができるまで使用された。

設計は大蔵省営繕管財局工務部長矢橋賢吉と工務課長大熊喜邦(よしくに)であり、その実務を支えたのは、妻木頼黄が育てた技術陣だった。

妻木は、本格的な議事堂の設計に備えて、有能な人材を集め、教育して、設計の体制を整え、さらに全国の石材、木材の産地の実態を詳細に調査して、綿密な用意を進めていた。

議場の天井。日本で最も大きなステンドグラスだが、参議院は宇野沢ステンドグラス製作所、衆議院は別府ステンドグラス製作所の制作(『至高の近代建築』より)
議場の天井。日本で最も大きなステンドグラスだが、参議院は宇野沢ステンドグラス製作所、衆議院は別府ステンドグラス製作所の制作(『至高の近代建築』より)

大正7年いよいよ本格的な議事堂建設の機運が高まり、大蔵省の臨時議院建築局が設計を進めるばかりになってきた。そこに待ったをかけたのが、日銀、東京駅を完成させた辰野金吾だった。

建築学会を支配していた辰野は、議事堂の設計は広く民間から募集すべきだと主張し、ついに同年9月意匠設計の公募にこぎつけた。第一次募集には118通の応募があり、そこから20案が選ばれた。

ここからさらに第二次の募集が行われ、一等に選ばれたのは内匠寮(たくみりょう)技手の渡邉福三。渡邉は設計の名手とされていたが、大正9年死去、このため実際の設計は、コンペ案を参考にして、臨時議院建築局が進めていった。