日本の近代建築は、明治維新を機に、「お雇い外国人」ジョサイア・コンドルらの指導のもとではじまったという。

当初は西洋建築を模倣していたが、次第に独特の創意と工夫を見せるようになる。

明治維新から昭和戦前までの約80年間、日本の近代建築は何を目指して、どのように建てられたのか。

現存する近代建築のなかから、関わった人々のドラマと紡ぐ、建築編集一筋の小川格さんの著書『至高の近代建築 明治・大正・昭和 人と建築の物語』(新潮新書)から、1936年に完成した国会議事堂について、一部抜粋・再編集して紹介する。

必要に迫られた国会議事堂

徳川幕府を倒し、明治新政府を樹立した新政権は、日本が欧米諸国に劣らぬ近代国家であることを示す必要に迫られた。

そのために何よりも重要なことが、憲法を制定し、国会を開設すること、そのためには国会議事堂が必要なことに気がついた。

西欧各国はそれぞれ国を代表する国会議事堂を持っている。日本にもそれに劣らぬ国の顔となる国会議事堂が必要だ、そう考えた政府は、当時新興国ながら力強く発展していたドイツに協力を要請した。

ドイツから派遣されたのが、エンデとベックマンという2人の一流の建築家だった。2人は、直ちに、霞ヶ関に国会議事堂を初め、最高裁判所などからなる壮大な官庁集中計画を設計した。

その実務を支えるため、明治19年、妻木頼黄(よりなか)をはじめとする3人の建築家の他、大工、石工、左官、レンガ、屋根、ステンドグラスの職人など20人をドイツに派遣して技術を学ばせた。

明治天皇はすでに明治14年国会開設の勅諭を発し、明治22年には大日本帝国憲法を発布している。国会の開会は待ったなしだった。