しかし、官僚組織に影響力のあった妻木は大正5年に死去。さらに辰野も、このコンペの最中にスペイン風邪を拗らせて死去してしまった。

巨頭亡くなり育ててきた人材が貢献

主導権を争ってきた両巨頭が亡くなったので、実際に議事堂の設計を手掛けたのは、妻木が長年手塩にかけて育ててきた矢橋賢吉、大熊喜邦、小林金平ら、優秀なスタッフだった。特に意匠については意匠設計主任だった吉武東里が最後まで大きな役割を果たしたと思われる。

コンペの翌年大正9年1月には地鎮祭を終えて着工、昭和2年4月には巨大な鉄骨が組み上がり、大掛かりな上棟式を挙行、そしてここから鉄筋コンクリート、石材の仕上げ、さらに大小合わせて450室という膨大な数の部屋の内装と続き、昭和11年ついに竣工した。

18年間という長い設計・施工の全期間、スタッフの入れ替わりもあったが、当初率いたのは矢橋賢吉、上棟式以降最後まで主導したのは大熊喜邦、意匠を担当したのは吉武東里だった。

大熊のもと、巨大な建築のデザイン、構造、材料、設備など膨大な作業が続けられ、ピーク時には千数百人の技術者、職人が取り組んでいた。

基本的にすべての材料が国産材と決められ、使用箇所によって全国から膨大な木材や石材、壁紙、絨毯などが集められた。