村上にとって、およそ10カ月ぶりの帰国となった。出発前と比べて、明らかに自分を取り巻く環境が変化していることはすぐに理解できた。

メジャー初登板、あるいはメジャー初勝利のときには、10月10日に予定されていた東京五輪直前ということで、村上の偉業が大きく報じられることはなかった。

いや、そもそも「日本人初のメジャーリーガー」ということが、どれだけの偉業なのかをきちんと理解している者も少なかった。

事態が変わった村上の「二重契約」

しかし、事情は大きく変化した。

「南海からは“キャピー君の言うことを聞いていればいいから”と言われていました。アメリカ滞在中のある日、キャピーさんからは、“ずっとこっちでプレーしていてもいいぞ”と言われたこともありました。シーズンが終わってからは、“来年もここでプレーしてもいいぞ”と言われていました……」

帰国直前のことだ。事情を探るべく、村上は日本に国際電話をかけた。受話器の向こうは南海ホークスの球団常務である。

「指定された番号にかけてみると、電話の向こうは明らかに飲み屋でした。こちらとしては詳しい事情を知りたいのに、常務は“いいから帰ってこい、とにかく帰ってこい”の一点張りでした。わざわざ国際電話をかけているのに、何も説明がないことで信頼がなくなってしまいましたね」

ホークスから依頼を受けていた代理人の指示に従って、アメリカ2年目の契約に村上がサインをしたことで事態が変わった。いわゆる「二重契約」となってしまったのだ。

ホークスサイドは当初のプラン通り、「あくまでも野球留学」というスタンスだった一方、ジャイアンツサイドは「すでにトレードマネーを南海に支払い済みだ」と強硬に主張する。

「確かにジャイアンツから南海サイドに1万ドルのお金は渡っていたんですけど、南海サイドはあくまでも一種の功労金のようなものとして理解していました。

でも、ジャイアンツサイドとしては、“すでに移籍契約は成立している”と主張しました。その結果、私自身は身動きの取れない状況となってしまったのです……」

ホークス側も、ジャイアンツ側もまったく譲らない。日米を股にかけた「村上争奪戦」は収まる気配がなかった。

『海を渡る サムライの球跡(きゅうせき)』(扶桑社)
長谷川晶一
長谷川晶一