この頃には球団の厚意で日本人家庭教師の下で英語の勉強にも励んでいる。「さらに英語力を磨いて、来年はますます活躍するぞ」という意気込みの表れだった。
「サンフランシスコでの生活も楽しかったけれど、フェニックスでの生活もとても楽しいものでした。完全に野球シーズンは終わったので、すぐに日本に帰ってもいいんだけど、“このままアメリカに残っているのも悪くないな”なんて考えていました」
アメリカでの暮らしは何から何まで楽しかった。村上は、ますますアメリカが好きになっていた。さらなる飛躍が期待される2年目に向けて、気力が充実していた。
しかし――。
ここから村上は思わぬトラブルに見舞われてしまう。日米両コミッショナーを巻き込む一大事が勃発するのである。
日米を股にかけた「村上争奪戦」
最初のきっかけは故郷・山梨で待つ家族たちからの「早く帰ってこい」という国際電話だった。
長男の動向を心配しての連絡だと思っていたものの、それにしては深刻、かつ切実な口調が気になった。やがて村上は事情を察する。

「アメリカでは日本の様子はまったくわからないし、身柄を一任していたキャピー原田さんも“心配しなくていい”の一点張りだったので、詳しい事情はよくわからなかった。
けれども、どうやら、“なぜ、村上は戻ってこないのか?”と問題になっているらしいということを知りました。それで慌てて日本に戻ることにしたのが、もう12月に入った頃のことでした」
日系アメリカ人で日米野球界に精通していたキャピー原田と鶴岡監督は旧知の間柄であり、キャピーの弟は大阪球場内に事務所を置く会社の社員であった。
そうした関係から、アメリカにおける村上の後見人役を任じていたのがキャピーだった。