自身が属する社会集団の大小にかかわらず、そこには少なくともルールが存在する。

一度ルールを決めてしまうと、破ったときには叱責の対象となり、ルールを守ることを教育したがり、世の中が“コンプライアンス至上主義”に陥っている。

そう考えるのは、生物学者の池田清彦さん。著書『多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告』(扶桑社新書)では、「多様性の尊重」が叫ばれる今の日本社会は上っ面の多様性が自由を奪い、差別と分断を生んでいるとし、本書でその原因を探っている。

今回は、社会に存在する「道徳」に従って生きることが正しい生き方とは限らないことについて一部抜粋・再編集して紹介する。

道徳を振りかざして嫉妬を正当化する人たち

自分が決めた規範と、その時々の社会常識(法律や道徳)が合致している場合、自分は社会的な規範に従っているのだと誤解する。

しかし、あくまでもそれは自分が選択した、その人固有の規範である。自分の欲望をもっともうまく解放するために、社会常識に合致させるという規範を自分で選んだにすぎないのだ。

自分が道徳的であり、他人が道徳的でない場合、多くの人は道徳的でない他人を激しく非難したりするが、道徳に従って生きるほうが心地いいからとそれを選んだのはほかならぬ自分自身なのだから、そんな非難はとんだお門違いでしかない。

特に自分から見て、道徳的ではないと思える行為をした他人が何か得をしたり、快楽を貪っているように見えるとき、その人への嫉妬を、道徳を振りかざすことによって正当化することなど非常につまらぬことである。

ところが、世の中にはこの手の人たちが驚くほどたくさんいる。

なぜ道徳を振りかざして嫉妬を正当化するのか(画像:イメージ)
なぜ道徳を振りかざして嫉妬を正当化するのか(画像:イメージ)
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古い話になるが、私が一番驚いたのは、歌舞伎役者の市川海老蔵が妻の麻央さんが亡くなった5日後に、子どもたちを連れてディズニーランドに行ったことが報じられ、「不謹慎だ!」といった非難めいた意見がネット上にあふれたことだ。