日本が大きな敗北を喫し戦局転換のきっかけとなったミッドウェー海戦。日本海軍の主力空母「加賀」の乗組員だった男性の記憶には、多くの戦友が爆撃で海へ投げ出され、沈んでいった光景が深く刻まれている。

「死ぬために戦争に行った」

太平洋の、深い海の底には、戦争に敗れた日本の軍艦が今も静かに眠り続けている。空母「加賀」だ。

深海に眠る空母「加賀」
深海に眠る空母「加賀」
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山口三次さん:
そのときは我々も一生懸命。死ぬということだけは全く考えていない。死ぬために戦争に行っていたから

佐賀市の山口三次さん(101)は、空母「加賀」の元乗組員だ。18歳の時、志願して海軍に入り、20歳で「加賀」への乗り組みを命じられる。1942年6月、日本とアメリカが繰り広げたミッドウェー海戦だ。

山口三次さん:
喜ぶだけ。「よし、行くぞ」と言って。沸き立った。日本海軍は30隻ぐらいの戦隊だった。それはもう見事なものだった

空母4隻の巨大戦力で出撃も…

日本が誇った、空母=航空母艦。多数の戦闘機や爆撃機を搭載し運用する船で、「動く飛行場」とも言われる。

空母「加賀」での山口さんの担当は「応急」。艦橋の1階で、見張りや緊急対応にあたる役割だった。

山口三次さん:
応急というのは今で言う消防士。船全体のことを全部知っておかないといけなかった

加賀を含め、空母4隻という巨大戦力で出撃した日本。しかし…。

山口三次さん:
アメリカが日本の暗号を解読してしまっていた

万全の迎撃態勢を整えていたアメリカ。山口さんがふと後ろを見ると、複数の米軍機が「加賀」に急接近していた。

米軍機の爆撃…火の海に

山口三次さん:
ちょうど「危ない!」と言ったときに、後方から数機。爆弾が3発入った。出撃するため待機していた第二航空隊を退避させていたら、それに命中した。火の海だった。人影がないほど燃え上がって…

激しく炎上する船。逃げる間もなく、今度は米軍機が山口さんがいる艦橋にも急降下してきた。

山口三次さん:
また「危ない!」と言って、今度は艦橋めがけて来た。そのとき「退避しろ!」と言われたことまでは覚えている

爆撃で海に吹き飛ばされ、山口さんは気を失った。

力尽きて海に沈んでいく戦友

山口三次さん:
思いついたときは海の上。戦友が何人かいて、戦友が「助けて」と言った。初めは12~13人いたが、数々力尽きて、死んでいって…

1人、また1人と沈んでいく戦友。その中には、同期の仲間の姿もあった。

山口三次さん:
鹿児島県からの“西薗”という同年兵がいた。「お前もここにいたか」と言って流木にしがみついていた。ひどい負傷をしていたんだろう。足や腰をやっていたんだろう。沈んでいった。「おっかあ」と言って。それはかわいそうだった…

海底5400mに眠る空母「加賀」

2019年、ミッドウェー沖の海底5,400メートルで、アメリカの調査団が沈没した空母「加賀」の船体を発見した。

ミッドウェー海戦での日本側の戦死者は約3,000人にのぼった。山口さんは流木に捕まりながら約8時間漂流した後、奇跡的に駆逐艦に救助された。

山口三次さん:
けがして負傷していたから病院船の「高砂丸」に乗って佐世保に行った。佐世保から嬉野病院に行って入院して1カ月ぐらいで治った

その後は、海軍兵学校の教員を務めるなどした山口さん。戦後は佐賀に戻り、子ども6人に恵まれた。

“戦友への思い”刻んだ「碑」

山口さんは6年前、自宅の庭に記念碑を建て、“戦友への思い”を刻んだ。

一千有余名の戦友が「加賀」と共に沈み行き俺れ生還したことを、申し訳なく恥じながら「ミッドウェー」海底深く眠る戦友の遺徳を永遠に祈り弔って

山口三次さん:
私はこのように80年も生きた。戦友と別れて「私もそのときなぜ死ななかったのか」と今は思う。戦友のことを思うと、船と一緒に沈んでいったときのことを思うと、1日としても忘れたことはない。この碑文に書いているように。死んでいった戦友に申し訳ない。いまも毎朝、無念のうちに海に沈んだ多くの仲間を思い出している

山口三次さん:
戦争はしてはいけない。こういうふうに、私のようにちょっともう…戦争は絶対してはいけない

(サガテレビ)

サガテレビ
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