太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争と、3度の戦火をくぐり抜けた92歳の男性。公式には日本は参戦していない、朝鮮戦争とベトナム戦争に関わった経験を、初めて語った。

終戦後、船舶会社に就職 “ドル稼ぎ”と言われ…知らずアメリカの船に

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山口薫さん(92):
今の気持ちは、戦争は人間の殺し合いやけんね。わたしは好まん

しっかりとした口調で語るのは、佐賀・小城市に住む山口薫さん(92)。1930年(昭和5年)に、佐賀市で生まれた。

太平洋戦争が終結した1945年。佐賀工業高校に通っていた山口さんは、昭和天皇が戦争終結を伝える玉音放送を、防空壕で聞いた。

山口薫さん(92):
日東航機というのがあったでしょ。飛行機の尾翼を作っていた、学徒動員で。負けたということがピンとこなかった。「絶対日本は負けない」という確信の上で育っているからね

終戦後、このまま学校に通うより海の仕事をしようと考えた山口さんは、ある決断をした。

山口薫さん(92):
佐賀工業は2年で中退。海が好きやったから唐津の海員学校に行った。そのうち頑張ってアメリカをぶっちぎってやる、という気持ちはあった

1年間、航海学や気象学など船と海に関するあらゆることを学び、卒業後は知人の勧めで、神奈川・横浜の船舶会社に就職した。

山口薫さん(92):
“ドル稼ぎ”で船に乗らんか、と。船に乗るのは間違いない、アメリカの船とは思わなかった。“ドル稼ぎ”と言われてね

1950年、山口さんが横浜から乗ったのは、アメリカ陸軍の軍用船だった。
当時朝鮮半島では、ソ連・中国の後ろ盾がある北朝鮮と、アメリカを始めとした国連軍が支援する大韓民国が、激しい戦いを繰り広げていた。いわゆる朝鮮戦争だ。

日本は公式には、この戦いに加わっていない。しかし、戦線から離れた場所では、日本人が関わる場合もあった。

山口薫さん(92):
朝鮮動乱の捕虜を輸送していた。巨済島というのがあった。そこの捕虜収容所に運んでいた。
今でいえば北朝鮮の人。それに付随する中国の人。島そのものが、捕虜収容所。
捕虜とはしゃべらん。しゃべったことない。しゃべるなと。かん口令が敷かれていた

ベトナム戦争でまたも…月給は国家公務員の8倍以上「これが戦争かな」

山口さんは1952年までの2年間、この船に乗った。戦争が一段落すると、20人ほどいた日本人の船員たちは解雇となり、山口さんも船を降りた。

しかし、やはり海の仕事がしたいと海上自衛隊に入隊。10年ほど勤めたあと、民間の船舶会社に就職したが、またも戦地に赴くことになる。

山口薫さん(92):
休暇で家に帰っている時に、1週間くらいしたら「官報電報」がきたんですよ。え、今頃?「官報」というのは陸海軍があった時に関係者だけの電報。官報電報がくるなんて思わんからね。佐世保MSTSに出頭せよ、と

1965年(昭和40年)、山口さんが佐世保港から向かった先はベトナムだった。
当時、ベトナムは南北に分かれ、ソ連や中国の支援を受けた北ベトナムと、アメリカなどが直接軍を送った南ベトナムとで泥沼の戦争に陥っていた。いわゆるベトナム戦争だ。

山口さんは、またもアメリカ陸軍の船に乗り組むことになった。

山口薫さん(92):
朝鮮動乱のあと、日本でいう「軍属」みたいな格好になっていたんでしょうね。船長の命令を、わたしが操舵手に伝えるのが主な仕事。船では爆弾とかを運んでいた

すぐ近くでは戦争が繰り広げられていたが、山口さんはあまり実感がなかったと話す。

山口薫さん(92):
「怖い」という気はあまりなかった。いわば金儲け、金をもらうから従事しているという感じ。(船が)攻撃されて弾が当たったら、150ドル。危険手当。びっくり手当。これが戦争かなと

この時代、大学を出た国家公務員の月給が2万円弱。山口さんの月給は約480ドル、日本円にして17万円余りだった。

関わり口外しなかったが…“殺し合いはやめろと伝えて、ということかと”

山口さんは8年ほど乗り組み、その後友人と横浜で貿易会社を立ち上げ、62歳まで船乗りとして航海を続けた。定年後は、ふるさと・佐賀でボランティア活動に取り組んだ。

そして2021年からは、小城市にあるシニアハウスに妻・康子さん(89)と入居。現在は、夫婦仲良く、穏やかな毎日を過ごしている。

朝鮮戦争・ベトナム戦争に日本人として関わっていたことは、これまで誰にも言ったことはないが、50年余りたち「そろそろいいか」との気持ちで取材に応じたという。

山口薫さん(92):
90過ぎまで生きているということは、人と人の殺し合いはやめなさいということを伝えろ、と言われているような気もする。世界平和でいきたいね

(サガテレビ)

サガテレビ
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