3年前に作られた1冊の戦争体験記には、当時、宮崎と沖縄という離れた地で、年が6つ離れた2人の少年の凄惨な戦争体験がつづられている。終戦後、2人は今も、後世に残すため戦争体験を伝え続けている。

父や友人の死…凄惨な戦争体験語る

戦争体験記の著者の1人、沖縄・浦添市在住の當間栄安さん(92)は、13歳の時に沖縄・浦添市から宮崎・日向市の平岩国民学校へ疎開した。

當間栄安さん:
宮崎にいたのは2年7カ月くらい。周りの人から見たら臆病者となった。逃げるんだから

当時を語る沖縄・浦添市在住の當間栄安さん(92)
当時を語る沖縄・浦添市在住の當間栄安さん(92)
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太平洋戦争中の1945年、沖縄県では住民を巻き込んだ凄惨な地上戦が行われ、20万人以上が犠牲になった。この戦闘が本格化する前の1944年8月、當間さんが通っていた学校から130人が日向市の3つの学校へ疎開した。

當間栄安さん:
これが父との最後の面会と最後の言葉だが、1週間前に疎開船が沈められたから、あんたは常に甲板の上で寝起きしなさいと

疎開先では農作物を育てる日々…
疎開先では農作物を育てる日々…

少しの間内地で勉強すると思って遠足気分で宮崎に来た子どもたち。しかし、待っていたのは、疎開先での長い生活だった。冬は寒さをしのぎながら学校に通い、農作物を育てる日々が続いた。

無差別爆撃で父を失う
無差別爆撃で父を失う

當間栄安さん:
爆弾が落ちるのを見て、悲惨にみんな死んでしまうと。玉砕、玉砕と騒いでいるから沖縄も玉砕かもしれないと思って覚悟していた。帰ったらうちの父ちゃんが本当に死んでいた。無差別爆撃。父ちゃんも落ちた時に首をやられて即死だった

提供:那覇市歴史博物館
提供:那覇市歴史博物館

終戦後、沖縄に戻って目にしたのは廃虚と化したふるさと。村民の半数近くが犠牲となり、沖縄に残った友人は戦死。命拾いをした當間さんは「大変感謝している。疎開してよかった」と話す。

「戦争=大人のいじめ」離れた地で本物を語る

日向市の甲斐誠二さん(86)は、当時、平岩国民学校で沖縄県から疎開した児童と一緒に勉強していた。

甲斐誠二さん:
家族が生きていれば引き取っていくが何人かは残る。家族が全部死んでいるから迎えに来ない。その話をたくさん聞いた

疎開者経験者の日向市訪問をきっかけに…
疎開者経験者の日向市訪問をきっかけに…

當間さんとは年が6つ離れていて、戦時中は交友がなかったが、沖縄が本土に復帰し、疎開を経験した人たちが日向市を訪問したことをきっかけに交流が始まった。

甲斐さんと當間さんら交流会が建てた記念碑
甲斐さんと當間さんら交流会が建てた記念碑

「戦争体験を後世に伝えたい」。この一心で、甲斐さんと當間さんたちは交流会を作り、日向市役所などに記念碑を建てた。

中学生たちに戦争体験を語っている様子
中学生たちに戦争体験を語っている様子

毎年、日向市と浦添市の中学生がそれぞれの戦跡を巡る研修を行っていて、2人はそこで戦争体験を語っている。

甲斐誠二さん:
武器の壊し合いじゃない、人の殺し合いが戦争なんですよと言いたい

當間栄安さん:
戦争というのは、すなわち、大人のいじめ。今のうちに語らないと本物は語れない。それが遺言、または伝達になる

久しぶりの顔合わせ…思い伝え合う

甲斐さんとビデオメッセージを通して久々の再会
甲斐さんとビデオメッセージを通して久々の再会

甲斐さんと當間さんは、電話で連絡を取りながら宮崎と沖縄で活動を続けているものの、最後に直接会ったのは15年以上前だ。今回、ビデオメッセージという形でお互いへの思いを伝えてもらった。

甲斐誠二さん:
こういう機会で会うことができてうれしいが、中学生に毎年会うと、疎開生が来たという気持ちになる。思い浮かべながら当時のことを説明・案内するのは非常にやりがいがある。このような形で会えたことをうれしく思う。お元気で!

當間栄安さん:
戦争体験の継承者として、いま宮崎で頼りにするのは彼しかいない。お互いに頑張っていきましょう

疎開の当事者、受け入れ側として。遠く離れた地で暮らす當間さんと甲斐さんは、今も脳裏に焼き付く少年時代の戦争体験を伝え続ける。

(テレビ宮崎)

テレビ宮崎
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