戦前にまさかの城主交代【鳥取城】
三木城を攻略した1580(天正8)年、秀吉は弟の秀長と合流し鳥取城の攻略に向かいます。鳥取城の城主は山名豊国。織田と毛利の間で揺らいでいましたが、秀吉の包囲戦の末に織田家へと降伏しました。
城主が降伏したのだから、鳥取城は織田家のものになるかと思いきや。山名家臣の中では、毛利方につきたい勢力もありました。内部対立の末、ついに豊国は追放されてしまいます。
残った鳥取城の家臣たちは籠城を決意。毛利家に支援を求めます。1581(天正9)年3月に吉川経家が城主として派遣されました。
吉川家は毛利元就の次男・元春が当主。経家はその一族のひとつ、石見吉川家の当主でした。頼りない城主は追放、代わりに頼れる城主がやってきたわけです。
兵糧攻めに万全の備えをしたはずが…
経家は毛利家で歴戦の経験がありました。また、鳥取は前年の不作による米不足でした。籠城戦での食糧不足を懸念し、補給ルートを確保します。日本海側から鳥取城まで、いくつかの支城を築いたのです。
秀吉は、1581(天正9)年7月中旬に包囲を開始します。
鳥取城の東側に太閤ヶ平(たいこうがなる)と後に呼ばれる陣城を築き、本陣をそこに置きました。その周辺の尾根筋には、約70もの陣城を築き、家臣たちが着陣します。総延長12km、約2万もの大軍です。
対する鳥取城は、城兵4000人。そして三木城と同じく、ここにも非戦闘員の領民たちが2000人。悪い予感しかしません…。

