古城探検家の今泉慎一さんが、「豊臣兄弟ゆかりの“戦う城”」の歩き方と、秘められた歴史ドラマを紹介する本連載。第3回は、三木城(兵庫・三木市)と鳥取城(鳥取・鳥取市)。いずれも豊臣兄弟による兵糧攻めによって、籠城戦で塗炭の苦しみを味わった悲劇の城です。

文=西畑紗南・今泉慎一 写真=今泉慎一 

空前の規模で包囲された【三木城】

1577(天正5)年10月、秀吉は信長と敵対する毛利家攻略のため、中国地方に向けて出陣します。当初は順調だったものの、まさかの展開。1578(天正6)年2月、播磨・三木城の城主だった別所長治は、一度は信長に従ったものの突如として離反しました。こうして、三木城での戦いの火蓋が落とされました。

三木城包囲の様子(現地案内板より)
三木城包囲の様子(現地案内板より)
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秀吉が三木城への攻撃を本格化したのは、1578(天正6)年7月下旬。最終的には東西約6km、南北5kmにわたって三木城攻略の拠点となる陣城(前線基地)を築き、その数は四十にも及びました。

これは、数ある兵糧攻めの中でも、かなりの大規模。通常はひとつの合戦で数個~十数個の陣城が築かれるものですが、四十ともなると、織田勢の力の入れ様がわかります。

戦国時代でも稀に見る長期戦に

「押してダメなら引いてみろ」。恋愛の話ではありません。これは籠城戦にも当てはまる言葉です。いくら圧倒的な兵力があっても、力攻めでは味方の被害も甚大なものとなってしまいます。

三木城の北側は断崖。直下を川が流れ容易に近づけない
三木城の北側は断崖。直下を川が流れ容易に近づけない

そこで、天才軍師・竹中重治(半兵衛)が進言したとされるのが「兵糧攻め」です。どんな堅牢な城でも、食糧が無くなってしまってはひとたまりもありません。