広島原爆で被爆した高校生は死体処理という「人間の尊厳が全然ない」行為を強いられた。家族にもほとんど話したことがない“思い出したくない”つらい記憶を、原爆投下から81年が経つ今、98歳の男性が語った。

「一瞬で焼け野原になり海が見えた」

広島原爆の記憶を語ってくれたのは、爆心地から約2キロの自宅で被爆した渡邉潔さん(98)。渡邉さんは広島で生まれ育ち、現在は佐賀市に住んでいる。

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第二次世界大戦中、全国各地で爆撃を受ける中、広島には爆弾が投下されることがなく、渡邉さんは普段と変わらない暮らしをしていた。
ところが、あの日の朝、広島の街は一変した。

1945年8月6日、アメリカが広島に原子爆弾を投下。地上600mの上空で強い光を放って炸裂し強烈な熱線、放射線、爆風によって町は一瞬で焼け野原になった。

渡邉潔さん
「みんな焼けてしまったもんですから、今まで海なんか見えなかったんですけど、ずっと平らになって、見えるようになって…」

爆心地から約2キロの自宅で被爆

当時高校1年生だった渡邉さんは爆心地から約2キロの自宅で被爆した。

渡邉さんは、高校に入学してすぐに学徒動員として兵器を作る工場で勤務し寮生活をしていたが、この日はたまたま休みで外出が許可されたため自宅へ帰った。

そして渡邉さんが食事をしようとしたその時…

渡邉潔さん
「空襲警報は解除というラジオの放送もあって、これならもう大丈夫だなということで、ご飯食べようとした時に、ピカッと光りました。それから熱いっていうのを感じて、それからしばらくして、ドーンという音とともに家がバシャッと潰れました」

練兵場のすぐ近くに住んでいた渡邉さんは、崩壊した家の中から1時間ほどかけて外に這い出ると、練兵場に向かって逃げてくる人の姿に衝撃を受けたという。

「水をくれ…一生忘れられない声」

逃げてくる人たちの姿を渡邊さんは語る。

渡邉潔さん
「みんな幽霊のような人が歩いているので、えっ!という感じだった。もう顔なんか2倍くらい腫れて。水ぶくれって言うんですかね。手とかなんかは皮が剥げて皮がずらーっと垂れ下がる」

「言葉は水をくれ、水をくれしかないわけですね。助けてくださいという言葉はない。そういう言葉が出ない。水をくれ、水をくれって、その言葉ばっかり」

「しかし、その水をあげるどころか、我が身を助けるのが大変で、火の気から逃げるというのが大変だったもんですから、水をくれと言う人の声を聞かないふりして逃げた。一生これは忘れられない声だなと…」

「皮膚もなくて…肉体が出てくる」

燃え盛る火の中、渡邉さんは祖母を背負い母の手を引いて広い練兵場に逃げた。生き残った兵隊が練兵場までの道をつくってくれたという。

被爆地帯からの避難場所となった「御幸橋」には全身に火傷を負った人々が集まっていた。その光景を渡邉さんは絵を描きながら語る。

渡邉潔さん
「皮膚が全部出てシャツが背中にちょっと残っているとかそういう状態、血だらけで。皮膚が残っている人はいいです。皮膚もなくて黒い皮膚が出てくる。肉体が出てくるんですよ。かわいそうなもんだった。動きもできないし誰か助けに来るのを待っているという状況」

「人間が川を筏のように流れていく」

川を見ると悲惨な光景が広がっていた。

渡邉潔さん
「熱いからみんな川の中に飛び込むわけですね。そうするともう瞬く間に死んじゃうんですね。それが、ものすごい人間が、川に浮く。筏を組んだようにずーっと並んで流れていく。上から、上からどんどんどんどん流れてくる」

被爆した多くの人は練兵場か似島に運ばれた。

渡邉潔さん
「薬とかもないし、ただ寝かしているというだけ。探して生き残った人がおれば連れて帰るという状況」

原爆の投下によって、まだ高校生だった渡邉さんに過酷な現実が突きつけられることになる。

「人間の尊厳が全然ないような行為」

渡邉さんは、この練兵場で亡くなった人を埋めるよう兵隊から指示された。

渡邉潔さん
「生き残った人間は死体処理を頼まれた。一週間もすると目やら口やら穴の開いているところから全部ウジが出てくる。ですから死体を運んでいって投げ込んで兵舎の残りかすの材木なんかを持ってきて火をつけて燃やす」

「一人一人引っ張ってこようと思うんですけど引っ張ると皮がズルズルズルっと剥げるもんですから引っ張るわけにいかない。もう最後は足でやったりして、もう人間の尊厳が全然ないような行為をやってしまって。そういう心になるというのが戦争。人間を人間らしく思わなくなってしまう」

帰る場所を失った渡邉さんは、それから1カ月もの間、家族とともに土管の中で過ごした。

渡邉潔さん
「被爆していないところに行って物乞いをする。食料がないからなんか少しでもいただけませんかと、いただいて帰って、土管の中に入っている人にも配って」

“思い出したくない”つらい記憶

渡邉さんにとって81年前の8月6日の体験は“思い出したくない”つらい記憶。これまで家族にもほとんど話したことがなかったという。

渡邉潔さん
「ノーモア・ヒロシマですね。爆弾が落ちたらみんな一般市民が亡くなるわけです。そういう戦争というのはもう二度とするもんじゃない」

今年8月6日の午前8時15分。渡邉さんは81回目の原爆の日に黙とうをささげた。

渡邉潔さん:
きょうの日を思い出して心の中で平和であってほしいということを願いました

サガテレビ
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