「兵糧攻め」は、いうなれば我慢比べです。城側が空腹に耐えかねて降伏するか、攻撃側が時間切れで撤退するか。三木城の戦いではなんと、籠城戦は約2年にも及びます。それだけ耐え抜いた別所方も大したものですが、秀吉方の補給体制も相当だったのでしょう。
城内に領民も逃げ込んだために…
この合戦の際、三木城には兵士だけではなく、領民たちも逃げ込んでいました。その数は兵士と合わせると7000人以上。当初は味方の毛利家から度々の補給もありましたが、別所方の周辺の支城が落ち補給ルートは絶たれ、食糧不足は深刻化します。
1580(天正8)年1月、ついに三木城への総攻撃が始まりました。もはや精魂尽き果てた別所方に戦う力はありません。城主・長治は弟、息子、妻と共に自害しました。
落城時、城内は死者で溢れ、『信長公記』によると「牛馬を食べるありさまであった」といいます。餓死者が数千人に及んだ籠城戦の凄惨な現場が目に浮かぶようです。
城内では藁まで食べていたとの言い伝えもあり、首塚のある雲龍寺では、毎年1月17日に、藁にみたてたうどんを食べる会が催されているそうです。
この戦いは俗に「三木の干し殺し」と称されています。その期間と悲惨さにおいて、戦国時代でも類を見ない籠城戦だったといえるでしょう。

