ただお腹痛いだけだった!南欧ナポリに流れた村山首相死亡説

カテゴリ:国内

  • 酔いが一気に冷めた村山死亡説
  • こんな人が首相でいいのかという不安
  • そして金日成が死亡し徹夜2日目に突入

ハイタッチで喜んだイタリア出張!

ナポリ空港に到着する村山首相

イタリアのナポリでG7サミットが行われると聞いて米国人助手とハイタッチした。
「うまいものが食える」。 

平成6年(1994年)7月のことだ。 
ワシントン勤務となって4年がたち、 仕事は楽しく米国という国も好きだったが、 メシは正直あまりうまくない。 直近の海外出張も、ドイツのミュンヘン、 その前が英国のロンドンで、どちらもメシはイマイチ。 それに比べイタリア、それも南部の港町ナポリなら外れはない。 

ここだけの話だが、 ワシントン支局から米国大統領に同行するサミット取材というのは、 実はそんなに忙しくはない。 原稿を書くのは東京から日本の首相に同行してきた官邸の記者がメインで、 彼らは寝る暇もないほど忙しい。 

それからホスト国の特派員(今回の場合ローマ支局長)も、 中継車や衛星、お弁当の手配などロジの仕切りで忙しい。 彼らに比べてワシントン組は米国政府の反応を取ったり、 たまにリポートするくらいで、結構いつもブラブラしていた。 

仕事はまあそこそこで、メシが美味い出張。 
これが我々のハイタッチの理由だ。 

イタリア料理を楽しんでいた最中・・・

ナポリ市内

ナポリ入りすると、案の定ヒマだった。 
その日も夕方に首脳のレセプションが始まった時点で、 大体ニュースの方向性が見えたので、 東京からの官邸組だけ残して、 キャスターの木村太郎さんたちとナポリ料理を食べに行った。 

その店はイカやタコが最高にうまかった。 
何がうまいって、素材もいいのだが料理の仕方が違う。 

民族にあまり偏見は持ちたくないのだが、 アングロサクソンやゲルマン(つまり英米独)の人々は、 肉への火の通し方に無頓着だと思う。 焼きすぎなのだ。 魚に至っては俺が代わりに料理してやろうか、 と言いたくなることが何度あったことか。 肉はともかく、それ以上に焼きすぎた魚介類というのは日本人にとってしみじみまずい。 

それがここイタリア、ナポリのさほど有名ではないレストランの、 イカ、タコの火の通し方の絶妙なこと! 半生で実にうまい。 イタリア人!あんたら最高だよ。 

太郎さんたちと貪り食った。 
米国人助手も大喜びだった。 
お腹いっぱいでナポリ名物のレモンチェッロという食後酒を飲んでいると、 官邸の記者から電話があった。 

彼らは結局メシには間に合わなかったのである。 
官邸記者は「外務報道官が会見します」という。 
こんな時間に変だ。

飛び交った“村山首相死亡説”

対応に追われる報道官連絡室

とりあえずプレスセンターに戻ろうということになり会計をしていると、 また官邸記者から電話があり、 なんと村山首相死亡という噂が出ているという。 

首相の体調不良を知らせるはり紙

大変だ! 
皆でタクシーに殺到し、プレセンに戻った。 
しかし首相が死んだのに外務報道官の会見というのはおかしい。 
もし死んだのなら、同行している政治家の園田博之官房副長官、 もしくは河野洋平外相が会見をやるべきである。 

結局、村山さんが死んだ、というのはガセで、 お腹の調子が悪く、レセプションを途中退席してしまったということだった。

首脳会談

田舎のおじいさんみたいな首相

村山さんを初めて見た時は、 どこかの田舎のおじいさんみたいな人だなと思った。飄々として永田町の政治家にはあまりいないタイプだった。

たぶん慣れない外遊で時差ぼけになりお腹を壊したのだろう。 当日冷たいジュースを飲んだのがいけなかったらしい。 結局村山さんはサミットではほとんど「使いもの」にならなかった。 

この時日本は「自社さ」政権だった。 
93年7月に細川首班の非自民連立政権が発足。
しかし9か月で退陣した細川氏の後の羽田政権は、 社会党が連立を離脱して少数与党となってしまった。

このタイミングで、野に下っていた自民党が社会党とさきがけを誘い、 なんと社会党の村山氏を首班にするという「禁じ手」を使って、 電光石火に政権を奪回したのだ。 

この政権交代劇には細川政権誕生の時より驚いた。 自衛隊を違憲としていた社会党の党首が、 日本の首相になったのだ。大丈夫なのだろうか。 

当然世間の批判はすごかったが、東京の政治部に聞くと、 政権運営は細川政権に比べ驚くほどスムーズにいっているという。 

なぜだろう。 
小沢さんがいなくなったからか? 
少なくとも細川政権のように毎晩政策の違いをめぐって、 遅くまで会議が終わらない、ということはなくなったらしい。 

後に村山政権の中枢にいた人に聞いたが、 なんといっても村山さんの人柄の良さが、 この「無理筋」連立を可能にしていた、ということだった。 

自社さ連立の仕掛人は亀井静香さんと言われているが、 非自民連立で細川さんを擁立した小沢一郎さんといい、 その小沢さんから政権を奪い返すために村山さんを立てた亀井さんといい、 その配役のセンスは抜群だったと思う。 

だがこの「スムーズな政権運営」はすなわち社会党の死を意味していた。 
細川政権で社会党は政策をめぐって小沢さんと毎日大げんかをした。 しかし自社さ政権では、自分たちが官邸の主になる交換条件として、 自衛隊の容認など看板政策を捨て、おとなしくなってしまった。 

看板政策を捨てた政党に魅力はない。 

村山さんが1年7か月首相を務め、息も絶え絶えになって退陣した直後に、 社会党は社民党と改称、その後半数の議員が民主党に移籍し、 社会党はあっという間に事実上消滅した。 

亀井さんの誘いに乗らず、 官邸の主になるという「助平根性」さえ出さなければ、今も社会党は存続していただろうか。

 ソ連の崩壊で社会主義はなくなり、 社会党の消滅は歴史の必然のように見えた。 

社会党の後継者の民主党は中道寄りで、 だからこそ政権も取れる、という触れ込みであった。実際に一度は取った。 だが、その民主党が分裂し、今の最大野党は立憲民主党である。 政策は懐かしい社会党のものに似ている。 いったいどうなっているのか。 

現代の混乱はさておき、20年前に戻ると、 村山さんは当時トンちゃんなどと呼ばれ、 女性にも人気が出始めていた。

阪神大震災と村山談話

1995年阪神大震災で倒壊した阪神高速道路

しかしこの「腹痛事件」で、 僕も含め多くの人が「やっぱりこの人には首相は無理ではないか」 と不安に思ったのは事実である。 その不安が的中したのは腹痛事件の7か月後、 95年1月、阪神淡路大震災での初動の遅れであり、同年8月のわけのわからない村山談話だった。

戦後50年の村山談話を発表する村山首相

村山談話についてはここでは詳述しないが、 僕が関係者に聞いた話では、 実はバランスの取れた「談話」案があったのに、 社会党左派の野坂浩賢官房長官が、 リベラルな外務官僚の谷野作太郎外政審議室長を使って、 左寄りの内容に変えたというのが真相のようだ。

野坂浩賢官房長官(左)と谷野作太郎外務審議室長(右)

ただ悪いのは野坂や谷野ではなく、 社会党との連立政権を維持したくて、 この左寄りの談話を受け入れた自民党自身だ。

二度目の「大変だ!」

村山さんの腹痛事件のおかげで、その夜僕らは全員徹夜した。 夜が明けて、朝の8時ころだったろうか。 日本の夕方のニュースの中継を終えて、 太郎さんとコーヒーを飲みながら、 「いやあ大変だったね」「昼は美味いパスタ食べに行こう」などとしゃべっていたら、 例の米国人助手が走ってきて、日本語で怒鳴った。 

「大変です!」 
太郎さんが「大変はもういいよ」と言うと、 「本当に大変なんです」という。 

「どうしたの?」 
「金日成が死にました」。 

1994年7月 金日成死去

94年7月8日、北朝鮮建国の父、金日成は83歳で生涯を終えた。 我々はそれからさらに24時間寝ずに働いた。 美味いパスタは食べられなかった。 

後継者は金正日という息子らしい。 
まだ鷹揚な雰囲気を漂わせていた父親に比べ、 2代目は神経質そうで、東アジアの安全保障の未来に不安を感じた。 

頼りなさそうな首相が率いる我が日本のことも心配だった。 

丸2晩寝られなかったナポリの夜。 
話がうますぎると思ったのだ。 

美味しいメシにラクな仕事などあるわけない。 
この世界、そんなに甘くないのだ。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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