プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績・伝説を徳光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
投手王国・広島の要として3度の日本一に貢献し、数々の珍プレーでも記憶に残るレジェンド・達川光男。壮絶な広島商業の練習、“ライバル”江川卓との関係、東洋大学入学・プロ入りの経緯など、スーパースターたちの素顔と自らのプレーについて語り尽くす。
広島商エース・佃正樹と明石海峡大橋で“魂の握手”伝説
徳光:
僕、江川も関東ですから評判聞いてましたけども、佃ってピッチャーもびっくりしましたね。

[1973年夏の甲子園 広島商はエース・佃正樹を擁して決勝戦で静岡商を破り16年ぶり5度目の全国制覇を達成]
達川:
もし広島商に来なかったら、プロ野球に100%行ってる。
徳光:
そうですか。
達川:
100%行ってる。

[佃正樹は法政大に進学。卒業後はドラフトで指名されず三菱重工広島へ進んだ]
もう初めて見た時に、左でね、当時で言ったら140km/hぐらい出てましたよ、中学生で。
(中3の)春休みから投げてたもん。で、高校生相手に完封してたもん。
若干コントロール悪かったんでね、迫田さんが毎日300〜500球ぐらい投げさせとったよ。
めっちゃくちゃ投げてたもん。
徳光:
ああそうか、ちょっと金属疲労で法政大学入ったんだ。

達川:
というよりも、彼の野球人生、運がなかったです。

[佃投手は法政大に進学。同時に江川卓も法政大に入り、「登板過多」の影響もあり登板機会が限られた]
達川:
なぜかというと、法政で投げる予定だったんだけど、江川が来たばっかりに、実力の世界だからしょうがないにしても投げられない。
だけどね、そのかいあって、彼はね三菱重工広島入ったんですよ。

達川:
で、明石海峡大橋知ってます?
彼は明石大橋の建設に携わったんですよ。
私が(1992年に)引退して何年か後にね、彼がね、私に突然電話してきた。
徳光:
佃さんが?

達川:
一般開通する前の日に竣工(しゅんこう)式あるじゃないですか。
その日に彼が電話かけてきて、「達川!キンチョール!」って言って、「何月何日空いてないか」「空いとる」って。
で、仕事ずらしてもらって、で、明石海峡大橋まで連れていってくれて。明石海峡大橋の麓、黒潮じゃないですか、すっごいグーッと。
そこで彼がね、号泣するんですよ、その波を見て。

達川:
「どうしたんや?大丈夫か?」
手握って泣きながら、「キンチョール。この橋どうやー?」って言うから、「おう、おまえの甲子園の優勝戦で投げたボールよりええよ、ええ橋作ったのう」って言った。
徳光:
そんな話があるんだ。
達川:
そこからしばらくして彼は亡くなったんです。がんで。
徳光:
そうでしたよね。
達川:
だから私ね、(高校時代)佃とハグもしたことなければ握手もしたことない。
初めて握手したのは、明石海峡の時。
こいつ、こんなに大きな手しとったのか、柔らかいいい手だなと。
そういうドラマがあってね、で、プロに入って私がここまでやらせてもらったのは、ピッチャーに恵まれたというのはね。やっぱりそういうことがあってね。大したことのないキャッチャーが、ここまでプロで生きてこれたのは、いいピッチャーに巡り合えたおかげですよ。
明治大を志望も風呂で島岡監督と遭遇伝説
徳光:
佃さんが法政大行って、金光興二さん(広島商キャプテン)も法政大行って、達川さんはどうして東洋大行ったんですか?

達川:
私はね、(部長から)「おう達川、お前どこ行きたい?」と聞かれて。
「法政大です!」って言った。
「法政はもうちょっと人数が埋まっとるんで、(推薦枠の)3人は決まっとるんじゃがのう」って、「枠があるし」って言ってて。
「じゃあ僕、明治大行きます」って言って。明治大受験したんですよ。

達川:
で、2日間(セレクション)に行ったんですよ、明治に。
で、2日行ってね、島岡さんの前でプレー見せたら、「高校生、野球上手だな」って言われて。
徳光:
島岡さんに。珍しい。

[島岡吉郎(きちろう)(1989年77歳没)1952年明治大学野球部監督に就任
37年間にわたり指導。リーグ優勝15回・大学日本一5回。鉄拳も時差ない熱血指導で神宮を沸かせた。愛称は「御大」]
達川:
もう野球のうまいの分かったから、帰って勉強しろと。うちは勉強せな通らんぞと言われて。
で、(セレクション終わりに)「風呂入れ」って言われたんですよ、マネージャーに。
入ったら、何でか知らないけど、島岡さんが用事があって風呂に入ってきちゃった。
で、「高校帰ったら英語勉強せよ、ええな英語」。
オウムのように、そのことばっかり言うんですよ。

達川:
で、出たら、ちょうど1年生がおったんですよ。大学1年生。
「おまえら、オヤジ(島岡御大)より先風呂入ったな」って。
徳光:
そうなんだ。

達川:
「入学したら楽しみにしとくわ」って。
そうか楽しみにされるんか思いながら。で、僕帰って、「明治大はちょっと難しいですわ、僕。やっぱり勉強せないけんし、東都でいいですわ」と言って。
それで東洋大学を選んだ。不純な考えで行っただけですよ。
で、東洋行ったら、高橋さんに。
徳光:
高橋さんって監督ですか。

[高橋昭雄(2022年没74歳)1972年東洋大学野球部監督に就任
23歳の若さで監督に就任後、1976年秋に東洋大初のリーグ優勝。46年間で東都リーグ最多の542勝・リーグ優勝18回を達成した]
達川:
監督。
あの人全部、東都大学の記録全部破ったのよ。
プロに送った人数も一番多いんですよ。
徳光:
そうですか、そんな名将なんだ。

達川:
だからプロ野球を。「リーグ戦なんか勝たなくていい」って言うんだもん。
徳光:
プロ野球選手になることの方が優先?
達川:
の方がいい。ひいてはプロ野球選手まで行ける選手を育てることで、大学生に勝てるということで。

達川:
ある時、神宮でね、1点負けてたんですよ。8回の裏ぐらいに。
ノーアウト1・2塁になったんですよ。
で、(ベンチの)サインを見たら「打て」だったんですよ。
「えー、広島商でこういう野球1回もやったことないな」と思いながら、勝手にセーフティーバントしたんですよ、スッと。
で、2・3塁になったんですよ。
それで次の人が打って勝った、その試合。

達川:
そしたら神宮球場の2階のロッカーで。
「君はプロ野球行きたいんじゃないのか?」って言んで、「ハイ」って言って。
「なんでバントしたんだよ」
「バントしてやった方が点が入るかなと」
「おまえがホームラン打ったら3点じゃないか、バカヤロー」って言われて。
グランドへ帰ってから、もうずっとバッティング練習して。
毎日僕はバックスクリーンへぶち込むまで終わらんのですよ、バッティングは。
達川:
高橋さんも慧眼(けいがん)ですね。
達川さんもやっぱりプロに向いてるっていうのを見たんだね。
「弟」とリーグ戦で初優勝 東洋大・松沼兄弟伝説
達川:
大学行ったら、「アニヤン」。1年生からレギュラーで「アニヤン」。

[松沼博久(73)1979年西武ドラフト外入団
通称「アニヤン」。弟の雅之と西武黄金時代に活躍。プロ通算112勝。新人王・最多奪三振1回。東洋大では達川の1年時に4年]
達川:
アニヤンのボール150km/h以上。
徳光:
そんな速かったんですか。

達川:
速いなんてもんじゃないですよ。カーブは大きいし。
僕、アニヤンにね、本気でマウンドで怒られたもん。
日大の佐藤義則(のち阪急)と投げ合ってね、0-0、この回が0点だったら再試合だったんだけど、ランナーサードでパスボールよ。1ー0で負けた。

[1974年東都大学秋季リーグ
東洋大は勝ち点で中央大と並ぶが勝率で下回り初優勝を逃す]
怒ったアニヤン。あの温厚のアニヤンが「あれぐらい捕れ」って怒られて。
次、今度(アニヤンが)卒業して弟が入ってきたんですよ、松沼さんの。
お兄ちゃんにいじめられたけん、弟もかわいがったらいかんなと思いながら。

[松沼雅之(69)1979年西武ドラフト外入団
通称「オトマツ」「オトヤン」。東洋大では達川2年時に1年生。東都リーグ歴代2位の通算39賞を記録。プロ通算69勝]
達川:
弟が入ってきて、ブルペンでちょっと30球ぐらい捕ったんですよ。
その瞬間に、同級生に「おい、松沼の弟大事にせえよ」と。「お前ら変なことするなよ」。

達川:
こいつで優勝できる。受けた瞬間に。
僕もね、だから優勝の方が強かった。
そのお兄さんにね、少しかわいがってもらったようなことは忘れて。
もう優勝したいから、それで捕って。
彼、だからにいまだ破られてない東都の記録、56イニング無失点っていう。

[松沼雅之の2年時に東洋大は初の東都リーグ優勝を果たす。連続無失点56回2/3は現在も東都リーグ記録]
徳光:
それがあるんだ。

達川:
だけど、無失点記録も本当なら70以上いってたはずだった。
もういっぱいいってた、もっとずっと永遠に。
私がね、コンタクトレンズを落としてしまったんですよ。
徳光:
えっ。その後も、プロでもそういうシーンがありましたけど。

[コンタクトレンズ事件(1990年8月28日 対中日)
達川がコンタクトレンズを紛失し試合が中断。両チーム総出で捜索したプロ野球史に残る「珍プレー」]
達川:
いやいやあのね、寮でこう洗ってたらね、いつもはね、栓をしてるから油断して、「えー」って言ったら、トゥルッといったら流れてしまった。片方のしかなかった。
まだ替えがちょうどなかったもんで、片方の目だけで試合に臨んでた。
で、大事なところで、ランナーサードでパスボールしたんですよ。

達川:
12球団のスカウト来ていた、松沼雅之を見に。
私じゃないよ、松沼を見に。
おまけに私も見てたのもいたんだけど。
そしたら次の日から、スカウトが全然来なくなった。
ジャイアンツのスカウトも大洋のスカウトもみんな来てたのが、 バタッと来なくて。
だから社会人に行く予定だった。
夢だったカープ入団 ドラフト会議はパチンコ店で…伝説
徳光:
広島に指名されたってことは非常に光栄だったでしょ?
達川:
甲子園で優勝した時よりうれしかったね。

徳光:
広島ですもんね、うれしいよね。
達川:
うれしかったですね。
もうこれ以上のない作文がかなったですよ。
徳光:
ただ4位指名ってのは。
達川:
いやもう、何位でも6位でも8位でもよかったですよ。
徳光:
ずっと(寮で指名を)待ってたわけでしょ。

達川:
いや2位まで待ってたんですよ。
(ドラフト中継の)放送がもう2位で終わりだったから、1年生に「おいもう諦めたわ」と。
「ちょっとパチンコでも行ってくるわ」と。
「万が一指名されたら、鶴ヶ島会館におるけ、来いよ」と。
一生懸命パチンコしようと。
まだないんか、まだないんか呼ばれるのを思いながら。
そしたらなんとか(指名された)。

達川:
本当はね、大洋だったんですよ。
大洋、広島の順番だったんです。完全ウェーバー方式で。

達川:
大洋の人は、取ろうか取らないかどっちでもええわ、いうような感じであって、もう下位だったから、スカウト同士でやっぱりあるじゃない、暗黙の。
「広島は達川はいらないのか?」って言ったら、大洋は「取るぞ」って言ったんです。
だったら、「取るな!広島が次いくけぇ」で。
それは、(スカウトの)木庭さんがあとから教えてくれたんです。
だから大洋行ってたら、今ごろDeNAでGMぐらいになってるかも。それはないか。
徳光:
ちょっとですね、達川さん大変なんです。

達川:
時間がないね。
徳光:
これね、番組始まって初めてなんですけど。
番組初のことなんですけど、なんとですね、プロに入る前に話が終わってしまうという。

達川:
いいですよ、だからまあ締めましょうよ。
徳光:
それじゃね、達川さんを育ててくれた。左投手によって育ったっておっしゃってましたけども、まずは佃さんですよね。
達川:
佃、大野、川口、清川…。
徳光:
聞きたいね、僕がね、ちょっとまだまだ話が。広島カープでの達川の話をですね、ぜひ次回聞かせてください。
達川:
広島時代は胃から汗が出ましたよ。
徳光:
ありがとうございました。
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