プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績・伝説を徳光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

強肩好打の捕手として活躍、1979年に記録した盗塁阻止率「.536」はパ・リーグの記録として今も破られず。引退後は近鉄・日本ハム・楽天で監督を務め優勝2回。「江夏の21球」、「10.19」とプロ野球史に残る名場面にも立ち会った“レジェンド”梨田昌孝氏に徳光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

代名詞「コンニャク打法」はブランデーのボトルから伝説

徳光和夫:
西本(幸雄)さん、どういう監督でいらっしゃいましたかね?

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梨田昌孝:
笑わない監督さんでしたね。笑うとか、何か怒る前に手が出る、足が出るっていう感じ。ただね、やっぱり愛情があるんですね。梶本豊治さんという方がね、西本さんの片腕(監督付広報)として近鉄に来られてね。西本さんが来られている日をわざわざ僕と羽田に「来い」と、球団事務所に。話をしているうちに、「西本さん来られたから、あいさつ行って来い」って。仕組まれているわけですよね。それで「梨田です。羽田です」って言ったら、「そんなもん知っているわ」と。「おまえらがおるから俺が来たんや」と。そういうふうに言っていただいたというのは、すごくうれしかったですしね。なんとかこの監督のためにという思いでやってきましたね。

徳光:
やっぱり打撃っていうことに関しましては、かなり指導を受けたんですか。

梨田:
西本さんは(打撃に)厳しかったです。

徳光:
西本さんは打撃コーチでもあったわけですか?

梨田:
そうですね。ほとんどブルペンは顔を出されない方でして。バッティングをすごくご覧になっていて、「へそを中心にして打て打て」って。僕はなかなかそれができなくてね。それで反発したわけじゃないんですけど、コンニャク打法に変えたんですね。

徳光:
それで。へぇ。

梨田:
グリップが下がる癖があったんですね。普通左足ステップしたときって、ちょっと上がってくるんですけど、下がる癖があったんで。これが下がるのは直らないんで、どうしようかなと思って。いろいろ考えてもできないんです。

梨田:
ある時、ミナミのスナックで、生意気にヘネシー(ブランデー)飲んでましてね。ヘネシーを逆さに持って、カウンターのイスに腰掛けながらね、こうして遊んでたら、このへんが居心地がいいんですよ。

徳光:
ヘネシーが原点なんですか? コンニャク打法。

梨田:
そうなんです。

徳光:
こんなものをちょっとご用意してるんですけど。

梨田:
ヘネシーはね、もうちょっと細い。これちょっと丸っこいんで、あれですけど。
これをね、逆さに持ちながら、こうやってカウンターで遊んでた。
ちょうどベルトあたりじゃないですか。すごく居心地がいいんですよ。これ以上下げるのって難しいじゃないですか。ここすごくいいところなんで。ここからやったら上がるしかないなっていう。

徳光:
バットに持ち替えていただいて、実際にこのブランデーからどういうふうに来るわけですか。

梨田:
ここへ下げたことによって上がってくるんで、打てるようになったんですけど、僕は体がすごく硬いんでね。柔らかく見せるためにどうしようかって。手をこういうふうに柔らかく見えるだろうっていう。こういうふうに柔らかくして、こうやって打つようになったら、グリップがちゃんとここへ上がるようになった。

徳光:
自分でもあれですか。「やったな」って、「これだな」って思ったんですか。

梨田:
思いましたね。ビビッと来るものがありました。

徳光:
そういったところからね。
それは自分で開発されたわけですよね。

梨田:
そうです。あまりバッティングコーチの人とか、周りみんなね、皆さん近寄ってこなかったです。もし近寄ってきて、梨田を教えているような感じになって、梨田が打てなかったらクビになるじゃないですか。

徳光:
そういうこともあるわけですね。

梨田:
で、僕が結構打つようになってから、皆さん、だんだん来られるようになる。

徳光:
なるほど、そういうもんですか。「あの打法は俺が教えたんだ」みたいな。