プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績・伝説を徳光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
阪神タイガースの「抑えのエース」として1985年の日本一を支え、フォークボールを武器に100勝100セーブ、2度の最優秀救援投手の“レジェンド”山本和行氏。幻となったメジャー挑戦、当時の常識を覆す半年でのアキレス腱(けん)断裂からの復活など、徳光和夫が切り込んだ。
自分の「弱点」はクロマティから情報収集?伝説
徳光和夫:
1980年には15勝で、翌年も12勝を挙げまして(1980年度15勝11敗2セーブ、1981年度12勝12敗1セーブ)。広島のドラフト1位ルーキーの川口(和久)投手からですね、覚えてますかね。今度はバッティングの話なんですけど。

[1981年6月23日、対広島戦の4回、山本は川口和久投手から史上14人目となる投手の満塁ホームランを記録した]
山本和行:
満塁ホームランですね。
徳光:
ピッチャーで満塁ホームラン。
山本:
川口に満塁ホームラン。バッティングも好きだったんで、ホームランを打てたからうれしいなっていう。
徳光:
ただその試合で満塁ホームランは、打たれたのもあったんですね。

[同じ試合の6回、山本は広島・山本浩二に満塁ホームランを打たれた]
山本:
打たれたんです。ホームラン打って、ホームランを打たれた。
徳光:
(山本)浩二さんですよね。
山本:
これ、浩二さんですかね。
徳光:
山本浩二さんにね。当時の広島は強力な打線だったと思いますけど、どうでしたか?

山本:
(広島は)野球がひとつ進んでましたね、強いだけあって。ピッチャーの配球を読んで打つ、あるいはピッチャーのクセを読むっていうのがすごかったです。それはタイガースが追いつかなかったです。だから僕も投げるときにいろんな、人間、クセが出るんで、やっぱりクセがあったんですね。
徳光:
あったんでしょうかね。それを見抜かれていたのか。

山本:
見抜かれていたんですね。山本浩二さん、なんと「.359」。3割5分9厘打ってるんですよね。山本さんに対しまして(対山本浩二:打数117・安打42・打率.359・本塁打11・三振16)。

[高橋慶彦(68):
1974年広島ドラフト3位。スイッチヒッターの1番打者。精悍(せいかん)なマスクで人気。盗塁王3回。33試合連続安打は日本記録]
山本:
「そういうふうに僕のことを攻略する方法でやってるのかな」っていうのは、オールスターゲーム出るといろんなチームの選手と話ができるんですよ。そういうふうにお前のところのチームやってたのかっていうのが聞けたのが高橋慶彦。「おまえ、どういうのを待ってた」って聞くと、「いやほかの球はいいから、1球は必ず来る。これを打つようにやってる」って。「フォークボールは見逃し三振でいい」って、「振るな」っていうそういう攻め方で、僕のことをこうやってね。

山本:
そのうちに、いろいろ親しい各チーム、いろんな選手に親しくなるわけですよ。特にいいのが外国人選手。東京とか来ると「行こうか」って言って、通訳連れて一緒に飲みに行ったりとかしているときに、外国人に会うんです。だから(巨人のウォーレン・)クロマティも会ったし、中日の選手、名古屋行けば、中日の選手とも(ケン・)モッカとも会ったりするわけですよ。で、話を聞いて情報を得るわけですよ。そうすると、ああ俺はこういうふうに見てるのかというのが分かるわけですよ。
徳光:
外国人選手からね。
山本:
俺が考えている以上にいろんな考え方があるんだなっていう、それは絶対参考になるなって思って。
徳光:
勉強家ですね、山本さんね、やっぱり。いろいろ話を伺いますと。

山本:
ちょっと興味があると、ダーッと行っちゃうんです。すべてにおいて。
再びリリーフに転向 2度の最優秀救援投手伝説
徳光:
当然、先発完投で投げてたわけでありますけど、82年でしたかね、安藤(統男)さんが監督になりまして、これでリリーバーに。

[安藤統男監督就任1年目(1982年)4月29日、対巨人戦で山本は5安打完封でシーズン初勝利を挙げた]

山本:
1試合目、最初先発だったんです。巨人戦で完投勝利で。そのシーズンの初勝利を挙げたんです。完投勝利で勝ったんですよ。その後に「リリーフやってくれんか」って、急に言われて。「チームのためだから何とかしてくれ」、「いやもう嫌だ」って何回も断った。「でもやってくれ。そのあとなんとかするから」、「なんとかするって、何もできないのにな」と思いながら投げました。数字は15勝8勝26セーブかな(1982年度は15勝8敗26セーブ・最優秀救援投手、1984年は10勝8敗24セーブ・2回目の最優秀救援投手)。

徳光:
すごいですね。15勝してて、さらに26セーブしてる。その年、最優秀救援投手。でまた、84年にも2度目の最優秀救援投手。
山本:
だから、その84年の時にそれは良かったんで、85年は安藤さんが吉田(義男)監督に代わったんですよね。その時に「ダブルストッパー構想」というのを吉田さんが言われたんです。
徳光:
ありましたね、ダブルストッパー。

徳光:
中西(清起)と僕と、交互に使おうと。ダブルストッパーということは「俺をあんまり信用してないな、新しい監督になったら新しいチームで違うことを、色を出そうとするのかな」と思いましたね。だからその時にメジャーの話があったんで、その騒動っていうのが。
徳光:
年齢にすると、35~6ですか?
山本:
35ですね。その前からあったんですけど、「メジャー行きたい、行きたい」っていうのが。フジテレビで昔あったんですよ、メジャー放送が。日曜日のお昼に(フジテレビは1978年4月~1981年10月まで「アメリカ大リーグ実況中継」をレギュラー放送)。それを見てたんですね。で、「こういう野球もあるんだ」って見てる時に、ワッとハマって。選手名鑑買いに行って、どこのチームの、メジャーのチームの選手のがこんなんなって見て。やりたいなっていうふうになりましたね。

山本:
安藤さんの時に、ハワイでキャンプやったんですよ、タイガースが。その時に僕はハワイで知り合いの人がいまして、これはドジャースの極東担当スカウトもやってた。その方と会ってて話してて、「行きたいんだけど」って言ったら、「じゃあ(ピッチングを)見てもらおう」って。その時のドジャースはトミー・ラソーダ監督で、ピッチングコーチがロン・ペラノスキーっていう人だった。その人が臨時コーチでハワイ来たんです。「俺でいけるか?」って言ったら、「大丈夫だ。お前がフリーになったら、いつも連絡してこい」。で、そのころ、日本でもまだ代理人もダメですから、契約更改の時に「辞めさせてくれ」って言ったんですよね。そしたら球団もびっくりしますよね。
徳光:
そりゃそうですね。

山本:
前例がないことをやろうとしてるんだから、球団は対応できないですよね。で、そうなると、その当時のセ・リーグのコミッショナーの川島広守さんまで話が行きましてね。「こういう制度を作ってください」と。フリーエージェントもできないじゃないか。海外に行ける、自由に行ける、そういう制度を作っておかないと、必ず将来(同じようなケースが)出てくるのがあるからというので話をしてね。
徳光:
山本さんがそうおっしゃったことによって、川島会長は将来的には考えなければいけないというふうに思った。
山本:
そういうことだと。セ・リーグの会長からコミッショナーにもなりましたからね。後になったんですけど、それをやっぱり話を聞いてくれてよかったなと思って。だからこうして、どんどんアメリカ選手に負けずに行けるようになってよかった。
徳光:
まさにそうですよね、今ね。
優勝目前にアキレス腱断裂も…日本一で「感動の胴上げ」伝説
徳光:
ただですね、メジャーに行かなかったことによって、85年にとうとう(阪神が)日本一になるんですね。吉田監督のもとで。

山本:
またその時に、「まあこういうもんか」と思いましたね。9月にアキレス腱(けん)を切っちゃうんですよね(阪神リーグ優勝目前の1985年9月4日、山本は試合前の練習で左足アキレス腱を断裂)。
徳光:
そうなんですよ。あれはどういう経緯だった?
山本:
それまでのずっと蓄積と疲れもあったんでしょうけどね。夏前ぐらいから、ちょっと足が疲れてるなと思いながら、やらないといけない。練習してて、ちょっと走ろうかなってナゴヤ球場で走ってたんです。その時にパチンと切れちゃった。
徳光:
念願の優勝を目前にしてるんでしょ?

山本:
「ああこれが最後か」と思ったんですよね。「どうしよう」って落ち込んでる時に、次の日新聞で書かれて「山本和行絶望」って書かれちゃったんで。もう現役引退みたいなこと書かれちゃったんですよ。もう引退で、これで終わりだって書かれた時に、ムッと来ちゃった。

山本:
で、その時に、「もう1回マウンドに立とう」と思ったんですよ。ギブスをやりながらやって、1カ月ぐらいリハビリありますよね。リハビリやって、だんだん短くなって、歩けるようになったころに(阪神が)優勝したわけですよ。まあうれしかったですね。うれしかったですけども、「俺が胴上げ投手だったら、もっとうれしかったのに」っていうのがね。ここまでずっとやったのにと思ってね。でも勝った時、うれしかったですね。
徳光:
あの時は胴上げされませんでしたか?

山本:
胴上げされたのはね、日本シリーズ。日本シリーズでユニホームを着て。
徳光:
西武球場だったね。
山本:
西武球場でね、僕は胴上げしてもらったんです。それはもう最高にうれしかったですよね。
徳光:
やっぱりこの年の阪神は、ちょっと違う阪神でしたね。
山本:
もうその前の年とか勝てそうやなっていう気はあったんですよね。打線も良かったし、9月にアキレス腱切った時に、(抑えが)中西1本になっちゃったんですね。だから、ダブルストッパーといって交互に投げてやってましたけど、中西1本になったから、余計みんな頑張れたんじゃないですか。

徳光:
なるほどね。でもこの85年の年、もう1つ大きなね、この年に通算100勝と通算100セーブ。同じ年にそれを達成されて、どちらも巨人戦で。
[5月20日、対巨人戦で100セーブ、6月5日、対巨人戦で100勝、史上2人目となる100勝100セーブを達成した]
山本:
全部巨人がらみです。1勝もそうです。100勝も100セーブも。
セーブはたくさんできると思うんですけど、両方は難しいかなと思うんですよね。リリーフだけで勝つっても、なかなかリリーフだけでも勝つのも大変かなと思ったり。両方やってましたからね、両方やってたからできたのかなという気はしますね。

[100勝100セーブ達成者:
江夏豊・山本和行・齊藤明雄・大野豊・郭源治・佐々岡真司・(日米通算)斎藤隆・上原浩治]
徳光:
完全復活っていう感じはなかったんですか?
山本:
アキレス腱ですか。その時にリハビリをすごくしまして、で、半年で治して。普通は1年って言うけど半年で。

徳光:
だって翌年は開幕戦で。
[アキレス腱断裂から7カ月後の1986年4月4日開幕戦(対大洋)に山本は3番手投手として登板(1回1安打)]

山本:
投げて。逆に9月から休んでましたから、肩が軽かったんです。キャンプに行って投げるんだけど、なかなかしっくりこないんですよ、しっくりきたら、した時に休んでたから、その時が一番防御率が良かった(1986年度成績:登板49・11勝3敗15セーブ・奪三振80・防御率1.67)。

徳光:
1.67ですよね、すごいですね。復活してから負け数も少なかったですし。
山本:
だから球は、やっぱり肩は休めないといけないなという、そういうのを感じましたね。
大谷翔平の「攻略法」“伝家の宝刀”フォークボールを投げるカウントは?
徳光:
いずれにしましても、1988年。まさに昭和最後となったシーズンをもって現役を引退されるわけでありますけども、通算登板回数はなんと700試合(通算成績:登板700・116勝106敗130セーブ・防御率3.66)。

山本:
700試合ですね。
徳光:
700試合はすごいな、これは。
山本:
大学出て17年もやったけど、やっぱりそれだけでも大変かなと思うんですよね。
徳光:
ご自身の中では、まだ投げたいと思ったか、あるいは投げ切ったというふうに思われましたかね?

山本:
僕はもう投げ切ったと思いました。最後の試合で投げたんですけど、涙は出なかった。僕は僕しかできないもんだから、僕のものを100パーセント使って、全部使ってやろうと思ってやってたの。ずっとの積み重ねだなと思う。
徳光:
今の山本さんの言葉は、そのまま大谷翔平に当てはまるような気がしますけどね。彼は本当に今、持っている力を100%出そうと。
山本:
出そうと思ってますよね。
徳光:
そういう取り組み方してますよね。

山本:
してますね。違うのは、明るいんですよ。僕らは暗かった。悲壮感を漂わせてやってた。だけど今の大谷君は違う。
徳光:
やっぱりベースボール。明るいボールゲームですよね、ボールゲーム。
現役時代、最高時の山本和行、大谷をどういうふうに攻めますか?
山本:
外角の低め。外の真っすぐ。アウトコース低めの真っすぐと。そこへフォークボール。ここばっかり。
徳光:
インコースは突かない。
山本:
「いつ来るか」と思いません?3球続けたら。
徳光:
そうか、なるほど。

山本:
(内角に)行く行くと見せかけて行かないんですよ。その方が絶対ミスしないと思うんです。同じところ投げるんだから。こっち投げたら、こっち投げたらするから、1球はここに投げたら、やっぱりコントロールミスすると思うんです。
徳光:
コントロールミスになっちゃう。
山本:
なっちゃう。
徳光:
多岐にわたりまして、本当にいいお話ありがとうございました。楽しかったです。ありがとうございました。
山本:
まだまだしゃべりだしたら止まらないです。
徳光:
しゃべってくださらないのかなって最初思って。
山本:
そういうイメージがね。
徳光:
寡黙なカズさんだと思ってたんですよ。
山本:
そうじゃないですよね。
徳光:
本当にありがとうございました。
山本:
ありがとうございました。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 2025年9月16日放送より)
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