80回目の長崎での原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、被爆者代表の西岡洋さん(93)が「平和への誓い」を読み上げた。これまでの最高齢となる横浜在住の西岡さんは「絶対に核兵器を使ってはならない。使ったらすべてがおしまい」と、力強く訴えた。
「もう長崎が最後にしたい」
2025年の平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げたのは、被爆者・西岡洋さんだ。

戦前、西岡さんの一家は父親の仕事の関係で東京から長崎市に移り住み、爆心地から3.3kmの当時の鳴滝町にあった県立長崎中学校に通う13歳の少年だった。

原爆投下当日の8月9日、同級生4、5人が上に折り重なり、西岡さんは無傷だったが、その後見た光景は悲惨なものだった。

稲佐橋で見た光景は今も忘れることができない。「瀕死の、死んだ人が集まって横になっている。意識のある人が『水をくれ』と。私は『とんでもない』と『この水をあげたら私が死ぬ』と一切あげなかった。今でも胸に突き刺さって残っている」と振り返る。
平和への誓い(全文)
1945年8月9日、私は爆心地から3.3kmの県立長崎中学校の校舎内で被爆しました。13歳の時でした。
「敵大型2機、島原半島を西進中」という西部軍管区の放送を生徒が大声で職員室に向かって報告しているのを聞いてから、何分も経たないうちに敵機の爆音が聞こえてきたかと思うと、その音が急に大きくなりました。次の瞬間、身体がすごい光に包まれ、私は「学校のテニスコートに爆弾が落とされた」と思い、小学生の時から訓練されていたとおり、目と耳を塞いだ姿勢を取り、床に伏せました。
爆発の瞬間は、オレンジ色と黄色が混じったような光の海の中に一瞬全身が埋もれたような感覚でした。続いて、すさまじい爆風で窓ガラスが破壊され、私は部屋の隅に頭を抱えて転がり込みました。その上に級友が折り重なってきたため、その体重で息もできない有様でした。しかし私は級友たちの下敷きになったおかげで、無傷で済んだのです。級友たちはナイフのように尖った割れた窓ガラスが体に刺さり、血だらけになっていました。
さらに外を見渡すと、家々は壊れているのに火災は全く起きておらず、煙すら上がっていないのに、浦上地区には大きな火柱が上がっている。一発の爆弾だったはずなのに広範囲に被害が及んでいるのはどうしてかと、不思議に思いました。
その後、学校の防空壕に二時間ほど避難していたでしょうか。もう大丈夫だろうと、帰宅の途についた道は避難してくる人たちであふれかえっていました。
火傷か切り傷なのかわからない血まみれの男性。顔から血を流している赤ちゃんを抱いて歩く母親。腕が切れて垂れ下がっているのではないかと思われる人。こういう人々が中川町から蛍茶屋の方向に群れをなして歩いてくるのです。薄暗い雲が長崎の空一面を覆い、辺りは夏の真昼だというのに、あたかも日食のようでした。
こうして8月9日が過ぎ、戦争が終わりました。この爆弾が原子爆弾というものだと知らされたのは戦争終結後のことでしたが、原爆の恐怖はさらに続きました。それは原爆による後遺症です。爆心地付近にいたけれども、頑丈な塀で守られ、軽傷で済んだ人や、地下工場で仕事をしていて無傷で帰宅した人たちもいました。ところが、それらの幸運な人たちも、次第に歯茎から出血し、髪の毛が抜け落ちて次々に亡くなっていったのです。薬もなく、治療方法も分からず、戦争が終わったというのに原爆は目に見えない恐怖をもたらしたのです。
昨年、私が所属する「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞しました。これは私たちの活動が世界平和の確立に寄与していることが評価されたということに他なりません。そして、この受賞を契機として、世界中の人々が私たちを見てくれていることに大きな意義を感じました。
平和に繋がるこの動きを絶対に止めてはいけない、さらに前進させよう、そして、仲間を増やしていくことが、私たちが目標とするところです。
絶対に核兵器を使ってはならない、使ったらすべてがおしまいです。
皆さん、この美しい地球を守りましょう。
令和7年8月9日 被爆者代表 西岡 洋
(テレビ長崎)