食の雑誌「dancyu」の元編集長・植野広生さんが求め続ける、ずっと食べ続けたい“日本一ふつうで美味しい”レシピ。
植野さんが紹介するのは「チキンドリア」。
東京・市ヶ谷にある洋食店「キッチン水野」を訪れ、チーズの香りがたちのぼり、それぞれの食材の旨味が引き立つ人気メニューを紹介。
町の人気洋食店の裏側にある“家族の歩み”と2代目の“葛藤”にも迫る。
市ヶ谷のオフィス街にある洋食店
「キッチン水野」があるのは、東京 市ヶ谷駅。JRに東京メトロ、都営地下鉄と多くの路線が乗り入れている市ヶ谷は、新宿まで約6分。
この記事の画像(8枚)「市ヶ谷はお堀があって。お堀の向こう側は大学・高校といろいろな学校が多い。逆側はいろいろなお店があります。小さいお店がたくさんずらーっと奥の方まであります」と植野さん。
江戸時代にさかのぼると、城の外堀に沿って“見附”と呼ばれる見張り番があり、市ヶ谷もその一つ。外堀は現在も残っており、1年を通してお散歩スポットに。
植野さんは「こっちは本当にオフィス街。マンションもあるんですけど、あまりお店がないかと思いきや…あるんです」と話し、お店へ向かった。
父・母・息子、阿吽の呼吸でさばく
市ヶ谷駅から徒歩4分、ビルの谷間にポツンと立つのが「キッチン水野」。
店内は清潔感があって、ゆったりと食事が出来るテーブル席もたくさん。朝9時30分、店の仕込みが始まり、11時に開店すると、客が押し寄せる。
息子の翔太さんが焼き物などのメインメニューを、父、浩久さんが揚げ物、サラダ、サイドメニューを担当する。
翔太さんが作った料理を、浩久さんが用意したサラダの上にのせ、ソースなどをかけて仕上げる。浩久さんの妻、文子さんが配膳や接客をするなど、家族経営ならではの阿吽の呼吸で注文をさばいていく。
家庭的でほっこりする洋食が大人気で、30年続く、あたたかい店だ。
料理人の父の背中を見て育った息子
初代である浩久さんは、生まれも育ちも新宿。洋食やフレンチで7年修業したのち、35歳で独立し、1992年に東新宿で「キッチン水野」を開店し、2021年に市ヶ谷に移転した。
2代目の翔太さんは、東新宿に店ができる2年前に生まれ、物心ついた頃から料理人である父親の背中を見て育った。
「翔太さんは子供の頃から店を継ぐものと思っていましたか?」と植野さんが尋ねると、翔太さんは「継ぐ…という考えはありました」と口ごもる。
さらに植野さんが「すんなりと言えてない感じがありますけど?」と翔太さんの本音を聞き出そうとすると、「いろいろと迷ったりもしている。いろいろと嫌な部分も見えてくるので。単純に経営の部分もまだ教わっておらず、それができるようにならないと継ぐという以前の問題かと思っています」と答えた。
手探り状態で突然手伝うことに
翔太さんは高校卒業後、調理師専門学校へ進み、その後、日本料理店や居酒屋などで働いていた。そんな中、今から7年前に浩久さんに病気が見つかり、入院することになった。
そのときに浩久さんから、「昼時だけでもいいから手伝ってほしい」と言われたことが一つのきっかけだったという。翔太さんは「私と母2人で急にやることになって、何も分からない状態でやって、いろいろとミスもしました」と苦労を明かした。
使い慣れていないキッチンや調理器具に加えて、父の料理にはレシピのメモがなく試行錯誤の連続だった。
約3カ月後に浩久さんは復帰したが、以来、体力的な面を考えて、翔太さんにメインの料理を任せ、フォローをする立場にまわったという。
植野さんが「この先どうなりますか?」と夫と息子2人を見ている文子さんに尋ねると、「まあ2人の努力次第ですかね」と笑いながら話した。
植野さんは、次に翔太さんに将来の展望を尋ねると「…父が居るところではあまり話したくない」と再び濁した。しかしその後、父親の居ない場で尋ねると、翔太さんは「継ぎたいと思っています」と宣言した。
本日のお目当て、キッチン水野の「チキンドリア」。
一口食べた植野さんは「ホワイトソースが滑らかでほどよい優しさ。ご飯とからむことによって幸せな味わい」と感動していた。
キッチン水野「チキンドリア」のレシピも紹介する。