食の雑誌「dancyu」元編集長/発行人・植野広生さんが求め続ける、ずっと食べ続けたい“日本一ふつうで美味しい”レシピ。
植野さんが紹介するのは「あげ鳥とナスの甘辛炒め」。
荒川区宮ノ前にある町中華「中華料理 永新」を訪れ、絶妙な甘辛でご飯も、そしてお酒も進む一皿を紹介。
味の決め手となる、永新ならではのアレンジを加えた豆板醤の作り方も学ぶ。
宮ノ前は貴重な路面電車が残る町
「中華料理 永新」があるのは、東京荒川区・宮ノ前。
宮ノ前は「田端」や「王子」といった駅にも近い東京の下町エリアで、宮ノ前を走る都電荒川線は、東京にわずかに残された路面電車だ。
新宿区早稲田から台東区三ノ輪まで12.2キロの距離を約1時間かけて運行。
宮ノ前の近くには30年ぶりに改修を行い、2022年にリニューアルオープンしたあらかわ遊園がある。
植野さんは「小さな商店街に店が点々とある感じの、昔ながらの下町の住宅街といったところです」と話し、お店へ向かった。
開店から50年、昭和レトロな町中華
宮ノ前停留所から徒歩2分の場所にあり、下町の住宅街に色鮮やかな軒先が出現する「中華料理 永新」。
カウンター席が10席と決して広くはないお店だが、開店からすでに50年と、年季が入ったたたずまいは、昭和レトロなおもむきを感じさせてくれる。
この記事の画像(9枚)営むのは、帽子姿が様になる、店主の石岡道子さん。
永新を始めた母親はすでに引退し、今は道子さんが仕込みから調理までたった一人で行っている。
料理はどれも飾らない、昔ながらの中華料理で、飽きのこない、シンプルな味付けが客に人気。
下町・宮ノ前で長く愛されているザ・町中華な店なのだ。
高校を休みがちになり店を手伝うことに
東京・麻布十番で60年以上にわたって営業している「中華料理 永新」。
道子さんの両親は共に料理人として修業し、1973年にのれん分けが許され、宮ノ前で「中華料理 永新」を開店した。
当時の宮ノ前といえば金属加工や印刷業など、多くの町工場が軒を連ねた職人の町。さらに東京女子医科大学東医療センター(現在は足立区に移転)もあり、とにかくにぎやかな場所だったという。
しかし、道子さんが中学生の時に両親が離婚。母が一人で店を切り盛りすることになる。
高校に入ると道子さんは目標もなく、学校も休みがちになると、母親から「あんた、高校続けるの?やめちゃうの?」と心配される。
「どうしようかな…」と困惑する道子さんだったが、母親から「行かないんだったら、忙しいんだから店を手伝いなさい」と提案を受け、道子さんは手伝うことに。
火の車だった店を救ったのはお客さんのSNS
その後、道子さんは結婚し、2人の子供を育てながら、出前を手伝うなど、必死に母親を支えてきた。
だが時代が移り変わり、宮ノ前にも不景気の波が襲う。
町工場は減少し、商店街から人の影も少なくなっていった。売上は大幅に減少し、母も病気がちになり、店の状態は火の車になってしまう。
「辞めようという選択肢がなかった。そんなことを考えている余裕はなかったです。生きていくために“嫌だ”とか言っている場合じゃない。日々の生活がかかっちゃっているんで」と道子さん。
「毎日を頑張るしかない」と奮起し、母の引退後も、道子さんは一人で店に立ち続ける。
そんな時、光明が差す。それがSNSだった。店を訪れた客が昭和レトロなたたずまいや、料理の写真をSNSにアップすると、それを見て永新を訪れる客が徐々に増えていった。
YouTubeを見たことがきっかけで訪れたお客さんは「一生懸命頑張っている店主を見て、それで来ました」と話す。
SNSでの反響に道子さんは「運がいいのか、たまたま食べに来てくれた方の口コミや動画から、徐々にお客さんが来ていただけるようになった」と感謝する。
毎日頑張った結果が今につながる。「中華料理 永新」はこれからも頑張り続けてほしい店だ。
本日のお目当て、中華料理 永新の「あげ鳥とナスの甘辛炒め」。
一口食べた植野さんは「甘辛が全体を包んでいる、辛みの具合がちょうどいい」と絶賛する。
中華料理 永新「あげ鳥とナスの甘辛炒め」のレシピを紹介。