食の雑誌「dancyu」元編集長/発行人・植野広生さんが求め続ける、ずっと食べ続けたい“日本一ふつうで美味しい”レシピ。

植野さんが紹介するのは「両面やきそば」。

高島平にある両面やきそばの専門店「あぺたいと」を訪れ、外はパリッ、中はモチっな、食感にコントラストが生まれた一品を紹介。

焼きそばに人生を捧げた男が35年の歳月をかけ、たどり着いた、理想の焼きそばの作り方を学ぶ。

マンモス団地が広がる、高島平にある店

「あぺたいと」があるのは、東京、高島平。

「高島平といえば団地ですよ。ぶわーっと広がる団地にたくさんの人が住んでいますが、線路の反対側はいわゆる普通の住宅街です。そば屋さんもあるし、いろいろなお店がポツンポツンと点在しています。ここにもパン屋さんがあります、覗いてみましょう」と植野さん。

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地元で愛され40年のベーカリー「ドゥ・ムッシュ」に所狭しと並ぶパンは、90種類以上あり、どれもおいしそう。そしていよいよ、お目当ての店へ。

ブームの先駆けとなった両面焼きそばの専門店

「あぺたいと」代表の飯野雅司さんは、焼きそばに全身全霊をかけ、研究に研究を重ねてきた。

店内は、背中合わせのカウンターに、ファミリーに人気の小上がりも。昼時ともなると、入口脇にあるテーブル席も埋まる人気ぶり。

そして、お客さんに気さくに話しかける飯野さんの人柄も愛される理由の一つだ。 

35年前に看板を掲げ、今や10店舗に拡大の「あぺたいと」は、焼きそばブームの先駆けとなった店でもある。

焼きそばは小、中、大、そしてビッグの、4つのサイズがラインナップされ、一番人気は1.5玉の中、生卵トッピング。

まずはそのまま食べ進め、途中、黄身を絡めれば、濃厚かつまろやかになる。さらに、唐揚げやチャーシュー丼など、セットメニューも充実しているのでガッツリ食べたい人も大満足だ。

青果店の長男が大分である食べ物に出会う

代表の飯野さんは、東京足立区で、三人兄弟の長男として生まれた。

実家は祖父の代から続く青果店で、長男である飯野さんは、跡継ぎとして育てられた。

しかし、親への反抗心もあり、道を踏み外してしまったという。高校に進学すると3度も停学となり、そして2年で退学になった。

「これ以上親に迷惑はかけられない」と猛省した飯野さんは、父の勧めもあり、大分の学校へ。

「あぺたいと」代表の飯野雅司さん
「あぺたいと」代表の飯野雅司さん

3年通い直したのち、東京へ戻った。店を継ぐ覚悟を決め、青果店で働き始めたものの、なぜか大分で出会った“ある食べ物”が頭から離れなくなってしまったという。

それは、当時の東京ではまだ珍しかった、白いスープの豚骨ラーメン。

その味にすっかりハマった飯野さんは「親父ごめん。俺、八百屋じゃなくて豚骨ラーメンの店をやりたい!」と宣言。

すると、父は「そんなにやりたいって言うんなら、わかった。しっかり学んでこい!」と承諾。飯野さんは、再び大分へ向かい、豚骨ラーメンのお店で、修業することになった。

豚骨ラーメンの修業中に出会った焼そばに衝撃

そして、大分で修業中に飯野さんは焼きそばと出会った。

「ラーメン屋の就業の最中に、友達が『美味しい焼きそば屋あるから行こう』って誘ってきて。焼きそば屋行くって発想はなかったけど行ったら美味しくて」と当時を思い返す。

パリッと焼いた麺に、大量のシャキシャキもやしが特徴の大分県日田市の「日田焼きそば」。 

町のソウルフードでもあり、いたるところに店がある。その味に衝撃を受けた飯野さんは、焼きそばの店に修業先を変更し、1年半ほど学んだのち、東京へ戻った。

そして、開店の準備にとりかかるが、当時の東京には焼くとパリパリに仕上がる低加水の麺を作る業者が見つからなかった。

そこで、飯野さんがとった解決策は自ら製麺機を購入し、業者には頼らず、自ら、麺を作ることにした。

こうして1988年、27歳で、高島平に、あぺたいとを開店したが「もっと美味しくしたい…」その一心で、試行錯誤を繰り返した。

自家製ソースは、約10種類の調味料の配合を1グラム単位で変え、ようやく現在の味に。麺も水分量を変えたり、アーモンドの粉を練り込むことで香ばしさを出したり、改良を重ねてきた。

これまで1度ローラーで延ばした麺を重ね合わせ、2度延ばしていた。

しかし、この麺の弾力を増すために1年前、その工程をさらに繰り返し、3度延ばすと弾力が最高潮になることを発見。こうしてオープンから35年、ソースも、麺も、そのバランスも、理想とする焼きそばを完成させた。

本日のお目当ては、あぺたいとの「両面やきそば」。

一口食べた植野さんは「パリっとした部分と香ばしさのグラデーションがある」と感動。 

あぺたいと「両面やきそば」のレシピを紹介する。