土足で家に上がり込み姉に銃を突きつけるソ連兵。引き揚げ船の中で死亡し甲板から捨てられる男の子の遺体。「満州引き揚げ」の悲劇を幼い頃に目にした87歳の女性は、戦争の狂気と恐怖を語り続けている。
子供だけで生きた満州
太平洋戦争そして終戦後の”満州引き揚げ”の体験を語る活動を続けているのは、佐賀・多久市に住む坂口康子さん(87)。
この記事の画像(13枚)坂口さんは昭和12年(1937年)、事実上日本が支配していた現在の中国の東北部、満州の撫順で生まれた。
父親の新三さんは昭和20年(1945年)5月に兵隊に召集。その後は母親の春子さんと子供で暮らしていたが、母は病気で亡くなる。終戦の9日前、8月6日のことだった。
父親の行方はわからず、坂口さんは、太平洋戦争の終戦直前に両親がいない生活に追い込まれた。
ソ連兵が土足で…姉に銃突きつけ
満州で、姉1人、兄2人、弟2人の子供6人で生活していた坂口さん。子供たちだけの家族周辺にも軍靴の音が近づいてきた。
坂口さんは恐怖の体験を語る。
坂口康子さん:
ソ連兵が道幅いっぱいに並んで裏口から土足で(家に)上がってきてね。姉に拳銃(自動小銃)を突き付けて、私は風呂場に隠れて。でも姉は撃たれなかった。隣のおじさんは撃たれた。バァーンと音がしたら、『うぅ』という声が聞こえた
弟の遺体を子供だけで火葬
戦火からは逃れられたものの、当時は不治の病とされていた結核で7歳の弟、和夫さんを亡くした。弟の遺体は子供たちだけで火葬せざるを得なかった。
坂口康子さん:
河原へリアカーに(弟の遺体を)乗せて(兄2人と)3人で行ったんですよ。火がついて棺桶に燃え移って、燃え上がって、両方に崩れ落ちた。その時(棺桶の)中に弟がいる。それが見えた時3人はもう号泣した
“引き揚げ船”で目にした悲劇
終戦時には約155万人の日本人が暮らしていた満州。戦後、多くの在留日本人が日本本土を目指す。坂口さんときょうだいは、終戦翌年の1946年7月、引き揚げ船に乗り込んだ。
当時9歳だった坂口さん。きょうだいと共に子供たちだけで、港があった葫蘆島から船に乗る。大きい貨物船で1000人を超える人が乗っていたという。
葫蘆島から佐世保、博多を経由し京都府の舞鶴に向かった引き揚げ船。食糧不足や不衛生な環境などから船内にも悲劇があふれていた。
甲板から捨てられる子供の遺体
坂口康子さん:
いつも私の隣に(ある)男の子がいた。もうがい骨ですよ。骨と皮。ある日、目を覚ましたら亡くなっていたんですね。そしたら大人の人が抱えて、甲板の上から(遺体を)捨てるんですね。悲しいけど、どうしようもないんですよ
船内でも次々に失われる命。船は出港から5日ほどで舞鶴に到着した。坂口さんは「舞鶴に着いて“食事とお風呂”と言われた時、『あぁ日本に着いたんだ』と思い、ほっとした」と帰国時の心境を語る。
父親は“シベリア抑留”で死亡
しかし、シベリアに抑留された父、新三さんの消息は依然として分からなかった。父親の行方が明らかになるまで45年を要することになる。
坂口康子さん:
平成3年(1991年)、(当時のソ連大統領)ゴルバチョフが初来日した時、6万人近い抑留者の名簿が新聞で公開された。その中に父の名前を見つけた。シベリアのビラというところで父は昭和22年(1947年)に亡くなっていた
シベリアに抑留された約57万5千人のうち5万5千人は祖国の土を踏むことはできなかった。
戦後47年の1992年9月、坂口さんはシベリア抑留者の遺族、約30人と共にシベリアに向かう。いわゆる“シベリア墓参”だ。
坂口康子さん:
新潟空港から(飛行機に)乗っていった。バスから降りてちょっと歩いたところに白木の墓標が立っていた。『一緒に日本に帰りましょう、あなたたちのことは1人でも多くの方に伝えます』とそこで誓った
戦争の狂気と恐怖を語り続ける
坂口さんは夫が他界した2023年の夏、戦時中の体験などをつづった本「蟻のなみだ」を自費で出版した。引き揚げ、戦争、シベリア墓参。坂口さん自身が体験したことを書いたものだ。
坂口さんは出版した300冊すべてを知人などに無償で配布。「父の供養のつもりで差し上げた」と坂口さんは話す。
出版をきっかけに坂口さんには講演の依頼がくるようになった。老人会などで話す機会がほとんどだったが、2024年7月には佐賀市の中学校で戦争を知らない世代に平和への思いを伝えた。
終戦から79年。坂口さんを突き動かすのは戦争で命を落とした人たちへの慰霊への思いだ。
坂口康子さん:
生きる喜び。生きる権利。何もかもを奪う恐ろしい狂気。それが戦争なのです。今ふつうに暮らしているのがどんなに幸せなことか、それを知ってほしい
(サガテレビ)