そもそも科学的なコトバでない以上、そうなるのは当然だ。

しかし、逆に言うと、この「あいまいさ」こそが、「生物多様性」というコトバが普及した最大の理由でもある。

ある人にとっては原生自然を守ることが「生物多様性を守る」ことであり、別の人にとっては外来生物を駆除することこそがそれに当たる。

トキのような希少種を増殖することや、コメの品種を増やすこと、あるいは自国の生物資源を保護すること、挙げ句は、小笠原諸島を世界遺産に登録することだって、どれも「生物多様性を守る」ためだと言うことができる。

政治的な立場に都合がいいニュアンスで使われることが多いのは、このコトバの使い勝手の良さをよく表している。

人間中心という暗黙の前提

多様性のある集団のほうが有事に強いのは間違いないが、だからといって「生物多様性」というプロパガンダは、必ずしも生物全体の多様性を担保するものではない。

なぜならそこには、人間社会が他の動植物の社会よりも優位であるという暗黙の前提があるからだ。

作物を育てるのも、家畜を飼うのも、家を建てるのも、道路を造るのも、自然の改変なしになし得ることはできないのだから、もはや自然の改変は現代人の生存の条件だと言ってもよい。

人間優位という暗黙の了解がある「生物多様性」(画像:イメージ)
人間優位という暗黙の了解がある「生物多様性」(画像:イメージ)

いくら多様性が大事だからといって、コロナウイルスやエイズウイルスを守らなくてはいけないという話にはならないし、作物を守るためには害虫駆除だって必要だろう。

一部の人たちはすべての生物の絶滅自体がよくないと言っているが、それは感情論としては理解できるとしても、そのような極論がメジャーになることはありえない。