食の雑誌「dancyu」の編集部長・植野広生さんが求め続ける、ずっと食べ続けたい“日本一ふつうで美味しい”レシピ。

今回は東京・錦糸町で愛される焼き鳥店の「塩鶏鍋」。創業100年以上の歴史を誇る「鳥の小川」で店主直伝の味わいを学ぶとともに、亡き父の思いを受け継ぐ母と息子の物語にも迫る。

記事の最後で秘伝のレシピも紹介する。

100年以上前から続く鳥の専門店

JR総武線、東京メトロ半蔵門線が乗り入れ、東京駅や秋葉原駅まで10分弱とアクセス抜群な錦糸町駅。

戦後の闇市から復興を遂げ、東京東部最大の繁華街として発展してきた街だ。

駅の北側は1990年頃から再開発が進み、高層ビルやマンションが整備され、きれいな街並みが広がる。

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一方、駅の南側には歓楽街が広がり、アジア料理店や昔から続く飲食店も多くディープな街並みとなっていて、駅を隔てて2つの顔を持つ街として知られている。

駅の南側を歩いていると、植野さんが「赤い提灯が見えてきましたね…」とつぶやくほど特徴的な昔ながらの焼き鳥店が見えてくる。

錦糸町で1919年、大正8年創業。世紀を越えて続く鳥の専門店「鳥の小川」(東京都墨田区江東橋4-13-3)。

昭和な店構えに炭の香りが広がる店内は、カウンターにテーブルが1つという造りで、ふらりと立ち寄って一杯楽しむことができる。

シャレの効いたメニューも豊富!

「鳥の小川」は、4代目店主で調理担当の小川剛さんと、接客担当の母かおるさんの、母子二人三脚で切り盛りしてきた店だ。

左:4代目店主・小川剛さん、右:母・かおるさん
左:4代目店主・小川剛さん、右:母・かおるさん

創業時から継ぎ足している秘伝のタレを使った焼鳥をはじめ、蒸し鳥に、焼き鳥丼、鳥のおつまみなど、鳥料理が勢ぞろい!

鳥料理以外にもきんかん、つくね、うずらの「たまたま3本」や、きゅうりが入った「かっぱハイ」など、シャレの効いたメニューも揃っている!

左からすきみ、ぼんじり、むね肉、正肉、レバー
左からすきみ、ぼんじり、むね肉、正肉、レバー

「鳥の小川」の他のメニューを写真で見る

4代続く焼き鳥店は、どのように作られたのだろうか。

「可愛い子には旅をさせよ」父の愛情

1919年、初代・小川瀬一郎さんが両国に鳥肉店「鳥の小川」を開店。洋風建築の「両国国技館」が建てられたばかりの頃で、当時、両国の周りには、鳥肉を売る店や鳥料理を出す店が多くあったという。

終戦後、2代目・清次さんの代で店を錦糸町に移し、焼き鳥店に鞍替え。

そして、剛さんの父・右二さんへと受け継がれた。

剛さんは大学卒業後、文房具を扱う会社に就職。結婚し子供にも恵まれたが、28歳の時、「サラリーマンが自分には合わない」と考え退職を決意。

剛さんは、父・右二さんに「オヤジ、俺店継ごうと思っているんだけど」と相談した。

しかし右二さんは、「うちの店は、2世帯食っていける儲けは無い!」「食い扶持は自分でなんとかしろ!」と反対し、剛さんを店に入れなかった。

母・かおるさん曰く、この冷たいように見えた対応は、息子を思う父からの愛情の裏返しだったという。

「いきなり家に来ても甘えが出るから、外で修業したほうがいいと…」(母・かおるさん)

剛さんは錦糸町のステーキ、ハンバーグの店に就職。13年間働き、店のチーフシェフにもなった。   

ところがその頃、急に父から「俺は引退する。店を継ぎたいなら継げ」と電話があった。

それまで店を継ぐことを許さなかった父・右二さんだったが、自分の余命を悟ったのか、亡くなるおよそ1ヶ月前に剛さんに連絡したのだ。

母から事情を聞いた剛さんは、店を継ぐことを決意。

創業時から継ぎ足しの、焼き鳥のタレだけは作り方を教わっていたものの、それ以外はゼロからの出発。母と2人で試行錯誤して、味の再現に取り組んだ。

店の味を引き継ぐ前にこの世を去ってしまった先代の父。

残された母と息子の奮闘の結果、常連さんからも絶大な支持を集める店となった。

こうした歴史のある「鳥の小川」で、名物になっているメニューが寒い季節にぴったりの「塩鶏鍋」。

一口食べた植野さんは「うまみの塊。雑炊にするとマジでおいしそう…」とつぶやいていた。

鳥もも肉やつみれに、たっぷりの野菜。2種類の合わせスープでふんわりと煮た、身体あたたまる一品。雑炊は最高のしめご飯! 

鳥の小川特製・塩鶏鍋のレシピをご紹介する。