人はある日突然、障害者になる。

その時、その事実を受け入れ、前向きに生きることはできるだろうか。

突然車いす生活になった20歳の若者が、スポーツを通して心身共に大きく成長した1年に密着。前編では、車いすマラソンに出会い、のめり込み、成長していく姿を追っていく。

“最も過酷な競技”との出会い

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宮崎県出身の小玉結一さん、20歳(取材当時)。自営業を営む両親の元、4人兄弟の長男として生まれた彼は、高校まで宮崎市で過ごした。

高校を中退し建設業に従事していた2018年2月、熊本地震で倒壊した阿蘇大橋の復旧作業中に13メートルの足場から落下。

一命は取り留めたものの、脊髄を損傷し、車いす生活となった。

父・洋樹さんは事故当時を振り返る。
「『落ちた、転落した』ということしか聞いていなかったので、大きい事故という意識は全くなかったんですよ。病院に行って息子の姿を見てびっくりした感じです。今もどこか他人事のような感覚が僕の中ではあるもんですから。まさか、自分の息子にああいうことがあるとは思わなかった」

緊急搬送された熊本で手術し、地元・宮崎での治療を経て、2018年の夏、社会復帰に向けたリハビリのために大分へやってきた結一さん。

大分県別府市の別府リハビリテーションセンター「障害者支援施設にじ」は、障害者のスポーツ参加に積極的な施設で、結一さんも当初、車いすバスケに参加していた。

しかし結一さんの性格をよく理解していた理学療法士の加藤和恵さんは、チームプレイよりも個人スポーツの車いすの陸上競技のほうが向いていると感じ、勧めるとみるみる興味を示すようになった。

初めてレーサーに乗った結一さん
初めてレーサーに乗った結一さん

車いす生活になってちょうど1年が経った頃、結一さんは初めて陸上競技専用の車いす「レーサー」に乗った。

アップダウンの激しい一般道で、土砂降りの中、灼熱の太陽の下で腕の力のみで走り続ける、そんな孤独な戦いが結一さんの性に合うのか。

兄・結一さんのことを弟・真聖さんはこう話す。

「僕から見た兄貴は自由奔放で好き勝手やっていて、後先考えずに突っ走るタイプだけど、僕たちには結構優しいことをしてくれたり、言ってくれたり。なんだかんだ言いながら、僕たちのことをしっかり思ってくれているような兄貴です。ただすごい極端な人で、(人と)合わなかったら合わない。合う人の方向に行って、その人たちと一緒にいるタイプ」

結一さんが初めてレーサーに乗った時、トップレベルの車いすのアスリートであるホンダアスリート・渡辺習輔さんが練習に付き添ってくれた。

厳しくも優しく指導してくれる同じ境遇の先輩。

この日から結一さんは気の合う人たちとの出会いを糧に、障害者スポーツの中でも最も過酷な競技と言われる車いすマラソンにどんどんのめり込んでいく。

人見知りで無口…だけと人を惹きつける魅力

大分県は世界最大級の車いすマラソン単独で国際大会を開催する、いわば車いすマラソンの“本場”であり、県全体で見ても障害者スポーツに対する意識が高い。

「大分国際車いすマラソン」の生みの親である中村裕博士は、1964年に東京パラリンピックの開催に尽力し、選手団長も務めた。ここに集まった海外の選手たちが、経済的に自立した生活を送っていることに気付き、翌年に地元・別府市に障害者自立施設、社会福祉法人「太陽の家」を設立。

博士は「障害者は保護される存在ではない。働いて給料を受け取って自立する」ことを求め、同時に障害者スポーツの発展にも積極的に取り組み、1981年には国際障害者年を記念して念願だった車いすマラソン単独の国際大会を大分で実現した。

当初、海外勢に圧倒されていたフルマラソン。次第に日本人選手も活躍するようになり、2006年には笹原廣喜さんが初の日本人王者に輝いた。

「世界最大、最高の舞台で自分も走りたい」

結一さんの目標が決まった。

廣道純さんのサポートで練習をする結一さん
廣道純さんのサポートで練習をする結一さん

レーサーに乗って3回目の練習をサポートしたのは、パラリンピックに4回出場し、800メートルで銀・銅メダルを獲得した廣道純さんだ。

結一さんはとても無口で、自分のことはほとんど語らず、自分の弱いところも絶対に見せようとしない。人見知りで口数の少ない結一さんだが、周りの誰もが彼に関わろうと、教えようと集まってくる。

結一さんには人を惹きつける、期待させる何かがあるのかもしれない。

2019年8月の夏合宿トレーニング。指導したのはパラリンピックに3回出場し、大分国際車いすマラソンで優勝経験もある山本浩之さんだ。

山本さんのアドバイスに真剣な表情で耳を傾ける結一さんは、室内練習で汗を滴らせながらも、教えられたことを身体で覚えていく。休憩中も練習をやめる気配のない結一さんに、山本さんも同じ熱量で指導を続ける。

山本さんの指導に結一さんは成長を予感させた。
「的確だなと思っている。手ごたえがあるというか、わかりやすい。(車いすの)漕ぎ方がわかりやすかった」

河川敷でも練習をする2人。室内練習で教わった漕ぎ方を実践すると、これまで時速18〜19キロで走っていたが、この日は時速24キロまで出るようになった。周囲は結一さんの走り方に成長を感じていたが、本人は納得がいかない様子で練習を繰り返す。練習が終わってもさらにアドバイスをもらい、反省点を生かす。

「もっとうまくなりたい」という気持ちが伝わってくる。

競技を始めてからわずか半年。着実に成長していく結一さんを大人たちは認めていた。初心者な上に、今どきの若者である結一さんを特別扱いせず、一選手として接し、その関係に結一さんも居心地の良さを覚えていった。厳しくも温かく接する先輩たちに必死に食らいつき、急速に成長していった。

だからこそ先輩たちは、次のステージ、レース出場へ進むことを促した。

初めてのレースで味わった悔しさ

初レースに臨む結一さん
初レースに臨む結一さん

初レースの舞台は鳥取。2019年9月8日に行われた第31回鳥取さわやか車いす&湖山池マラソンの車いすハーフマラソンに出場した。

付き添った理学療法士の加藤さんは「朝は余裕な感じだったんですけど、この場に来ると緊張してきたみたい。でも『気合が入っている』と言っていたので、きっと完走してくれると思います」と期待を寄せる。

初レースの目標は「1時間を切ること」。その力は十分についていた。しかし、練習と本番は違う。他人と競うレースは、コース取りやペース配分などレースプランが勝敗に直結する重要な要素であることをまだ結一さんは知らない。

レースは午前9時にスタート。この時点ですでに30度を超える暑さの中、結一さんは中間点を前に一人になった。互いに協力しながら風よけになってくれる人もなく、このペースでいいのか参考になる人もいない。危険な暑さと経験したことのないアップダウンで、過酷な初レースになった。

先にゴールしたホンダアスリート・渡辺さんは「時間制限の関門に引っかからないといいんだけど。彼もこの暑さは初めてだと思います、この坂も。タイムはどうでもいいので、無事に完走してくれると嬉しい」と明かす。

結一さんのタイムは1時間6分38秒。総合13位、年齢別カテゴリーで4位という好成績で完走した。

渡辺さんが結一さんに「お疲れさん」と声を掛け、「きつかった?」と聞くと、素直に頷く結一さん。

「もっと遅いかと思ってた。(車いすを)乗り換えて応援しようと思ったら入ってきた」渡辺さんは思ったよりも早くゴールをしたと驚いた。

しかし、結一さんは「1時間切れなかったので悔しい」と一言だけこぼす。加藤さんもレースを労い、「次の大会で1時間切らないとね」と励ますが、結一さんは「ここで1時間切りたかった」と悔しそうに繰り返す。

その後も次々とトップアスリートが結一さんに声を掛け、目標を達成できなかったものの、天候の条件などを踏まえて、上々だと結一さんの背中を押した。そんな彼は「明日から頑張ります」と次のレースを見据えていた。

後編では初めてのレース出場を果たし、日々成長していく結一さんの姿と父親の息子へ抱く厳しくも愛情深い思いに迫った。

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『車輪のアスリート~20歳の若者が生まれ変わった1年』)

テレビ大分
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