2019年10月、首里城が燃えた。

沖縄県民は心にぽっかりと穴が空いたような喪失感を感じていた。そんな中、首里城に祈りをささげる一人の男がいた。

ハワイの地で沖縄の文化継承に努める、沖縄県系4世のエリック和多さん。「首里城の再建は建物だけじゃなく、沖縄の言葉や文化、歴史の作り直し」だと彼は言う。

エリック和多さん
エリック和多さん
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首里城を失い、多くの県民がその存在と向き合い始めた。遠いハワイの地から、ウチナーンチュが忘れかけていた大事なことを、ハワイのウチナーンチュが教えてくれた。

(全3回、#2#3はこちら)

ハワイにあるもう一つの沖縄

2019年10月31日、首里城が燃えた日。

琉球新報に載ったエリック和多さんが祈る姿
琉球新報に載ったエリック和多さんが祈る姿

人々が悲しみに暮れる中、首里城に祈りを捧げるエリックさんの姿が地元紙に載った。

彼の様子を写真に収めた琉球新報社の記者は「おもむろにお祈りを始めて。焼け跡を見て、遠い目で語っておられて。悲しみもあったと思うんですけど、決意とかだったのかもしれない」と語る。

エリックさんは、琉球王国同様、かつて王国だったハワイで暮らす。ハワイは日系人が多く、その人口はハワイの人口の15%にも及ぶ約19万人。ほとんどが移民の子孫たちで、沖縄にルーツを持つ人々が最も多い。

ハワイに暮らすすべての日系人の約4人に1人、約4万5千人が沖縄系の人々だ。現在のハワイ州知事、デービッド・イゲも沖縄がルーツ。ハワイ伝統の舞踊・フラの世界で知らぬものはいない、最高のアーティストであるナプア・グレイグ・ナカソネもルーツは沖縄だ。

海外で暮らす沖縄ルーツの人々は、自らを“日系人”と呼ばないという。たとえ海外で暮らしていても、ルーツである沖縄への誇りを込めて“沖縄県系人”と呼ぶ。

そしてエリックさんもまた、沖縄にルーツを持つ沖縄県系4世だ。

首里城の焼失について「親戚か、近い人が亡くなったみたいな気持ち。なんで私たちがいるときに、こんなことがあるのかと思った」と悲しい目をした。

エリックさんはあの日、偶然にも沖縄へ里帰りしていたのだ。

遠い地にいても“生まり島”を思う

エリックさんはハワイ生まれながら、琉球舞踊の師範免許皆伝。舞踊・古典・民謡などあらゆる琉球芸能に精通している。

彼のライフワークは、ハワイで自らのルーツである沖縄の文化を伝え続けていくこと。「(沖縄の文化を)いつも心の中で守る。それを考えたら、沖縄はそんなに遠いところじゃない。ハワイ生まれだけど島人(しまんちゅ)」と話す。

子どもの頃から沖縄の音楽や踊りは身近にあり、高校生になると、ハワイで琉球舞踊を学び、29歳で沖縄県立芸術大学に留学。ルーツであるもう一つの故郷、沖縄で琉球王国の誇りであった伝統文化と島言葉、島人の心に直に触れた。

やがてハワイで三線や歌が得意な沖縄県系人を集め、NPO「御冠船(うかんしん)歌劇団」を結成。御冠船はかつて、中国皇帝が琉球王国に王冠を届けたとされる船のこと。

エリックさんの歌劇団は、ハワイで暮らす沖縄県系人にとって、沖縄の文化と音楽、言葉を守り伝える大きなシンボルとなった。

すべてのウチナーンチュにエリックさんは「独自の文化と言葉があることの素晴らしさ」を伝えたいという。「言葉がなくなると文化がなくなります。糸の繋ぎであるんです。文化とワッター(我ら)のウヤファーフジ(祖先)の言葉。本当の“生まり島”に戻りたい」。

海外に暮らす沖縄県系人は、もう一つの故郷である沖縄のことを、「生まり島」と呼んでいるのだ。

夢とは程遠い原野を切り開く

1879年に、日本の一部となった沖縄では、多くの人々が貧困にあえいでいた。

1899年、沖縄初の移民がハワイへと向かった。日本政府が宣伝する豊かな暮らしを求め、続々と海を渡った。しかし世界各国の移住地で待っていたのは病と貧困。夢とはほど遠い、原野を切り拓く過酷な重労働だった。

だが、同じ言葉を話す沖縄の移住者たちは、互いを励まし合い、歌い、支え合うことで、異国の文化や習慣の壁を乗り越えていった。

ボリビアやブラジルなど、今では世界28の国と地域で暮らす沖縄県系人。その数は42万人にも及ぶ。

そんな世界で暮らす彼らのために、沖縄県が2016年に制定した記念日が「世界のウチナーンチュの日」。毎年10月30日、世界中の県系人が沖縄を思う日だ。

エリックさんも2019年10月30日、ハワイから沖縄に里帰りしていた。その翌日、首里城が燃え落ちた。

首里城の焼け跡に何を思い、祈ったのか。

「これから立ち上がらないといけない、という気持ちでお別れの拝みをしました」

首里城を失ったあの日から、人々の心の中で何かが変わったのだ。

何か行動しないといけない

その変化は地元の若者たちをも揺り動かした。

琉球大学3年(取材当時)の稲福政志さんは「首里で生まれて首里で育って、今回の件があって、モヤモヤした気持ちはあったんですけど、うまく言葉にできなくて。

ここから城壁が見えるんですけど、首里城が燃えた当日、奥の方で火が上がっていて消防車が放水活動しているのが見えました。首里に住んでいて、いつも首里城とかSNSに上げていて、テレビとかでは伝えられない部分があれば伝えたいなと思った」と話す。

火災の当日、稲福さんは首里城の様子をSNSでリアルタイムで発信。するとその速報は、若者たちの間を駆け巡り、彼らは即座に反応した。

浦添高校2年(取材当時)の外間愛夏さんは再建に向けた募金活動を始めた。

「高校生なりにできることはないか、と思って、募金活動を始めました。とりあえず、いる人だけでやってみようって。大変とか思っているだけじゃなくて、何か行動しないといけない」

首里城公演を予定していた平良青年会・上原和史会長は、再建の祈りを込めて、旗頭を掲げた。

「前向きに再建に向けて頑張ることしかないんじゃないかなって」

首里城は焼け落ちてしまったが、新しい何かが芽吹き始めていた。

エリックさんは「若い世代がショックを受けていた。『自分の歴史と文化をもっと知りたい』『勉強したい』という言葉が出ていた。これは(首里城が)元に戻ったら、自然と大事なものと伝統が戻ってくるかもしれない」と期待を寄せていた。

なぜ、エリックさんは首里城への思いが強いのか。中編では、彼と首里城をつないできたものの存在と、戦後に焼け野原になった首里の姿を取り戻したいという人たちの強い思いを伝える。

【中編】琉球王国の平和と繁栄を守る砦。「首里城」はウチナーンチュのアイデンティティーだった
【後編】不思議と重なり合う沖縄とハワイの歴史。2つの“グスク”から若者たちが故郷を思う

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『海の向こうの首里城』)

沖縄テレビ
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