犠牲者3700人を出した福井地震から2026年で78年を迎える。1948年(昭和23年)、坂井郡丸岡町(現・坂井市)を震源としたマグニチュード7.1の激震は壊滅的な被害をもたらした。震源に近かった福井市森田地区(当時・森田町)では、ほぼ全ての家屋が全壊し、264人が犠牲に。震災の記憶が薄れゆく中、この地に残る2つの遺構と悲劇を語り継ごうとする人々の姿から、惨状と教訓をどう未来へつなぐべきか考える。

児童6人が犠牲に…「学童慰霊碑」が伝える惨状

1948年6月28日に発生した福井地震は死者3700人を超え、のちに気象庁が「震度7」設けるきっかけとなった。

福井地震で壊滅的な被害を受けた市街地
福井地震で壊滅的な被害を受けた市街地
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震源地に近かった福井市北部の旧森田町では住宅のほとんどが押しつぶされ、凄まじい被害を受けた。

住宅がほぼ全壊した旧森田町
住宅がほぼ全壊した旧森田町

地震当時、この場所にあった森田第2小学校は全焼し、児童6人が犠牲になった。現在、その付近には「罹災学童 慰霊碑」と刻まれた一つの石碑がたたずんでいる。

旧森田第2小学校の近くにある「罹災学童慰霊碑」
旧森田第2小学校の近くにある「罹災学童慰霊碑」

当時、森田第二小学校の2年生だった尾田光吉さん(85)は夕方、校庭にいたところを激しい揺れに襲われた。

小学2年生で被災した尾田光吉さん(85)
小学2年生で被災した尾田光吉さん(85)

「人間が1メートルも、2メートルも吹き飛んだ…あちこちに」目の当たりにした惨状は、これまで語ることはなかった。「校庭の8割がバサーっと割れて1メートル以上の段差ができて…女の人が割れ目に挟まって髪の毛だけが見えた」。その光景はいまも目に焼き付いているという。

激震で地面の至るところに割れ目が
激震で地面の至るところに割れ目が

地震発生から約1時間後、倒壊した校舎から火の手が上がった。校庭の中からは「熱い」「助けて」という悲痛な叫び声が聞こえたという。

この写真が撮影された3カ月後に地震が発生した
この写真が撮影された3カ月後に地震が発生した

この火災で校舎は全焼し、当時5年生だった児童6人が犠牲となった。

慰霊碑は、その事実を伝え続けている。

慰霊碑に手を合わせる尾田光吉さん
慰霊碑に手を合わせる尾田光吉さん

尾田さんはこれまで、当時の記憶を語ることを避けてきた。しかし、震災から78年が経過し、語り継ぐ人がいなくなったことで「自分が伝えよう」と意を決して話してくれたのだ。

現在も尾田さんは定期的に慰霊碑を訪れ、亡くなった児童たちの供養を続けている。

犠牲者を悼む駅前の観音堂

森田地区には、もう一つ震災の記憶を今に伝える遺構がある。ハピラインふくい森田駅の駅前に建つ「地震観音堂」だ。

森田駅前に建つ震災観音堂
森田駅前に建つ震災観音堂

このお堂は福井地震の3年後、当時の町長や有志が寄付を募って建立。現在は地元の自治会が管理を担っている。

特別に観音堂を公開してくれた
特別に観音堂を公開してくれた

特別に公開してくれた観音堂の内部には、森田地区で亡くなった264人を含む、約300人の位牌が安置されていた。

観音堂に安置された犠牲者の位牌
観音堂に安置された犠牲者の位牌

観音堂に安置された位牌の中には、当時8歳だった上田月照さん(85)の妹、常子さんのものもある。

妹を亡くした悲しみを語る上田月照さん(85)
妹を亡くした悲しみを語る上田月照さん(85)

地震が発生した際、妹と一緒に家の外で遊んでいたという上田さん。2歳年下の妹・常子さんは自宅におやつを取りに戻ったところで建物が倒壊し、下敷きになった。

福井地震で倒壊した家屋
福井地震で倒壊した家屋

上田さんは、妹を亡くした悲しみはどれほど時間が経過しても癒えることはないと心情を吐露する。毎年6月28日に行われる法要には欠かさず参列し、亡き妹への祈りを捧げている。

自治会長の吉田正和さん
自治会長の吉田正和さん

自治会長の吉田さんは「先人が残してくれたこのバトンを次の世代にしっかりと渡していきたい」と話す。

地震はいつ、どこで起きるか分からない。地域住民が守り続けてきた震災の遺構は、78年前の事実と教訓をこれからも絶やすことなく伝え続けていく。

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福井テレビ
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