1948年に発生した福井地震から、2025年6月28日で77年が経った。3万4000棟を超える家屋が全壊し、死者3769人という甚大な被害を及ぼし、震度7が創設されるきっかけともなった地震だ。震源地に近い、坂井市にある丸岡城天守はこの大震災で倒壊。しかし、7年後には元の姿を取り戻すことに。そこには、地域のシンボルを蘇らせたいという住民らの再建秘話があった。
◆地元で“お天守”と親しまれた丸岡城
「この城の周りが、かくれんぼの一番いい遊び場だったんですよ」
坂井市丸岡町に生まれ、お城とともに歩んできた丸岡城の近くに住む林田恒正さん(86)。
「懐かしいね…」
丸岡城は戦国時代、織田信長の家臣・柴田勝豊(かつとよ)が築城。現在の天守は、江戸時代に造られた部材が多く残り、国の重要文化財に指定されている。天守がつくられて約400年。だが、このうち直近の100年はまさに“激動の100年”だった。

◆太平洋戦争中に老朽化による修復工事が完了
サクラが美しいことで有名で、その景色が霞がかかったように見えることから“霞ヶ城”とも呼ばれる丸岡城。
昭和初期の丸岡城を映した映像からは、この頃すでに花見の名所だったことがうかがえる。地域住民からは親しみを込めて「お天守」と呼ばれ、生活にとけ込んでいた。
江戸時代以前に建てられた丸岡城天守は昭和9年に国宝(後の重要文化財)に指定されたが、老朽化が進んでいたため昭和15年から17年にかけて大規模な解体修理工事が行われた。その様子が鮮明に記録されている貴重な映像には、鯱(しゃちほこ)を運び出す様子も映し出されていた。
そして昭和17年、丸岡城は太平洋戦争真っただ中に修理工事を終えた。幸運にも、戦禍を免れて終戦。しかし…

◆修復工事の6年後に福井地震が発生
無事に修復工事を終えた、わずか6年後の1948年6月28日、丸岡付近を震源とする福井地震が発生。
林田さんは当時の状況をこう振り返る。
「ゴーっと音がして、その途端に横揺れ。もう立っていられなくなり転がって…」
「震度7」が創設されるきっかけとなった激しい揺れに、丸岡城の石垣は崩落。修復を終えたばかりの天守も、完全に倒壊した。
「家がボンボンつぶれていくのを見た。それで城を見たら、城はない。そんな状況でした」
城が石垣から浮き上がり、“天守がとんだ”と言われるほどの揺れだったという。
「お城どころではなく、自分の命がどうなるか…家のことだけで、城には目が行きませんでした」

◆地元や全国からの寄付で再建へ―
それでも数年後、まちの再建が進むと―
「学校ができる、役場もでき上がる。そしたらやっぱり“象徴”だった丸岡城を復元しないといけないという声があちこちから上がってきた」(林田さん)
住民らが、再建に向けて立ち上がったのだ。
このとき寄付した人たちの名簿が、坂井市の龍翔博物館に残されている。
坂井市・丸岡城国宝化推進室 角明浩学芸員:
「こちらが霞ヶ城芳名録です。(全国の)個人や企業・自治体など1000以上の名前が記されています」
名簿の先頭に書かれた「荒田太吉」の名前。丸岡町出身で、北海道の海運業で成功した実業家だ。この荒田氏の協力をきっかけに、次々と地元や全国から寄付が集まった。

◆震災前の解体工事の記録写真が手掛かりに
さらに修復に際しては、もう一つの幸運が重なった。
「技師の竹原吉助さんが撮影された写真が非常に大きくて…」(角学芸員)
地震の前に行われた解体工事で、国から派遣された技術者がその詳細を160枚以上の写真と図面に残していたのだ。
こうした資料を手がかりに、崩れた部材を一つずつ特定しながら再建された。
「くしくも数年前に行われた修理工事。その時の記録写真があったという“めぐり合わせ”…やはり、この写真が果たした役割は大きかった」(角学芸員)

地震による倒壊から7年後の昭和30年3月、丸岡城は元の姿を取り戻した。
祖父が修復工事の棟梁だったという西浦進さんは、丸岡城は地域の誇りだと話す。「地元のみなさんの“心のよりどころ”ですよ。50年、100年後も故郷の誇れるものとして大事にしていきたい」
平成に入り、林田さんは丸岡町長を務めた。「丸岡城はやっぱり、この町にとってなくてはならないものだと思う」
10年ほど前からは「国宝化」を目指す動きも生まれている。多くの人の思いがあって、消滅の危機を乗り越えた“奇跡の城”丸岡城。
いまも、これからも、変わらず地域に安心感を与え続ける。
