「絵馬は、絵か、願い事が書いてある方か、どちらが表?」この素朴な疑問が視聴者から寄せられた。小さな疑問から少々複雑な疑問まで…福井のあらゆる「なんだー?」を調査する番組「なんだー?ワンダー!」で、この疑問について調査した。
絵の面が表…本来は願い事を書くものではなかった
福井県立こども歴史文化館で学芸員の奥田陽子さんにこの疑問について尋ねると…「絵の面が表です」と即答。
さらに奥田さんは「そもそも絵馬は、願い事を書くためのものではなかった」と続ける。その背景は、江戸時代の福井で絵馬を流行させた一人の“仕掛け人”にあるという。
その人物は「夢楽洞万司(むらくどうまんし)」。彼は福井城下の店「夢楽洞」で絵馬などを制作・販売し、一大ブームを巻き起こした人物だ。
万司の実像は謎に包まれているが、4~5代にわたり福井城下で店を営み、県内各地に数多くの作品を残したことがわかっている。
中には、現代の小絵馬とは違う1メートル超の大きな板絵も。神仏に奉納するこうした「板の絵」こそが、本来の絵馬の姿だったとされる。
絵馬のルーツ
しかし…そもそもなぜ絵「馬」なのか。そのルーツは、神に生きた馬を奉納した古代の信仰にあるとされる。※諸説あり
雨乞いに黒馬、晴れ乞いに白馬を奉納したという京都・貴船神社の伝承が有名で、やがて高価な生きた馬の代わりに、馬を描いた板が奉納されるようになったのが始まりだという。

県の調査では、戦前までの絵馬が4千数百枚も発見されている。特に夢楽洞万司が登場した1700年代初期以降、奉納数は急増。万司の工房が手掛けた絵馬は江戸後期に爆発的に増え、福井に「絵馬ブーム」が巻き起こったことがデータから見てとれる。
なぜ万司の絵馬は人気を博したのか。初代万司の「羅生門」図(復元)には、当時の浮世絵で流行していた「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあしみみずがき)」という最先端の技法が使われている。筋肉の動きを強調する迫力ある表現で、流行をいち早く取り入れたのだ。
ブームの背景には社会の変化もあった。江戸後期の福井城下では旅ブームがあり、人々は旅の無事を「感謝」して絵馬を奉納した。つまり絵馬は「願い」ではなく「感謝」の証ともいえるのだ。
奥田さんによると、村の神社に奉納された絵馬は、人々が楽しむアートギャラリーの役割も果たしていた。万司はその需要を的確にとらえ、ビジネスとしても確立。福井の城下町に絵馬を定着させたのだ。
彼の作品には遊び心も満載で、「大織冠」図(復元)では、頭にイカを乗せた人物が怒っていたり(イカっている)、鯛を乗せた大将がいたりと(タイしょう)、言葉遊びが散りばめられている。流行を仕掛け、人々を楽しませた万司は、さながら江戸のプロデューサー「蔦屋重三郎」のようだったと奥田さんは評する。

奥田さんの調べでは、福井市内の神社に残る江戸~明治の絵馬の裏には願い事が書かれていなかった。奉納された色鮮やかな絵馬はまさに“村のギャラリー”で、奉納者の記念や感謝を伝えるものだったことが分かる。
願い事を書くようになったのは1960年代から?
では、絵馬に願い事を書くようになったのはいつからなのか。
奥田さんは、戦後1960年代以降ではないかと推測する。激化する受験戦争などを背景に「裏に願い事を書くもの」という現代のスタイルが定着していったとみている。
そして…万司の血筋はいまも福井に続く。福井市内で100年続く「オーオカ薬局」を営む万司の末えい、大岡宏道さん。
その自宅には万司が手掛けた天神画が、戦禍や震災を越えて大切に受け継がれている。「ご先祖様は大げさにいえば…スーパースターのような人だった」と大岡さんは笑顔で語る。
「絵馬は、絵のある面が表」。この答えの先に、福井の城下町で人々の感謝の心を形にし、彩ってきた絵馬師の物語があった。
