12月末、行き慣れたいつもの道を通って、岩手県・大槌町の被災地を訪れた。東京から新幹線、在来線、車で約6時間かかる。冷たい潮風に小雪が舞い、刺すような寒さが昼間でも身体に染みる。東京の冬とは全く異質の気候に東北の人たちの忍耐強さを思う。
東日本大震災がきっかけで知り合った、とあるご家族との縁は、15年に及ぶ復旧、復興の歴史とも重なる。東京と岩手での定期的な交流の機会は、彼らの懸命さや愚直さはもちろん、心の温かさや優しさを実感するときでもある。
借金を返すまでは…
地元の海産物を販売していたご主人は2024年、60代半ばで亡くなった。震災後に背負った借金を返済するまであと数年というところだった。「(借金を)返しきるまでは死ねない」と繰り返していた彼の無念さと生来の明るさに思いを馳せ、ご家族に案内された墓標に手を合わせた。
ご主人の生業は子供たちが引き継ぎ、東京や埼玉など首都圏のイベントにも参加している。
発災時に知りあった3人の孫も大きくなった。幼かった長男もすでに社会人。釜石市で働いているという。次男は「人助けをしたいから」と4月から陸上自衛隊の一員として任務に当たる。震災直後に生まれた三男は、震災からの年月がそのまま年齢になる。釣りの腕前は「なかなか」だと誇らしげに話していた。
彼らから亡くなった友人らの名前がすらすらと出てくるのはいつものことだ。大槌町の犠牲者は1289人。その数はもとより、当時の町の人口の8%という割合の大きさが被害の甚大さを物語る。家族や知り合いを一瞬にして失った現実とその思いは、想像すら出来ない。
日々遠のいていく復興
2025年7月の北海道・カムチャツカ沖の地震で取材に応じていただいた役場も訪ねた。当時対応してくれた職員は、12月に発生した青森県東方沖の地震などの対応に追われたため、休みを取っているという話だった。
代わりに応対した職員に話を聞くと、やはり復興は進んでいないという。震災前には約1万5000人だった人口は1万人程度に減ったまま、戻らないそうだ。「一度(大槌を)出て、別の場所で長い時間を過ごすと、そこが地元だという意識が根付いてしまう」という。
盛り土によって地面を高くし堤防も完成、三陸鉄道は開通した。街のインフラも整備されて復旧は進んだ。しかしながらいまだに空き地が目立ち、人通りは少なく、街は賑やかさとは無縁だ。喫茶店も数件あるそうだが、前述のご家族に聞くと「コーヒーを飲みたくなったら、知り合いの家に行って飲めばいい」との答えだった。復興への道のりは厳しいままだ。
今に伝える「いのちをつなぐ」
その大槌町から三陸鉄道でひと駅の釜石市・鵜住居(うのすまい)地区も津波の被害を受けた場所の一つだ。駅前にある「いのちをつなぐ未来館」は、震災や津波の恐ろしさを忘れないための教訓、伝承の場でもある。
津波のメカニズム・危険性の解説や難を逃れた小中学生の当日の行動、それぞれが自分で命を守る「(命)てんでんこ」の教えなどが当時と変わらないまま展示されている。ここに来るたびに災害は過去ではなく「いま」のものであり、この先も続くという思いを新たにさせる。
復興にかける地元の人たちの思いが胸を熱くさせる一方、整備された街の新しさと行き交う人の少なさのミスマッチが寂しさをいっそう引き立たせているようにも感じた。館員の方には非常に丁寧に対応していただいた。

震災をきっかけにした貴重なご縁
冒頭のご家族の自宅では、夕方から地元の海鮮を囲みながらの宴会となった。日付が変わる頃までよく飲み、よく食べ、よく話した。
亡くなったご主人の「大槌弁」が強くて、特に酒の席では言葉をよく理解できなかったことを白状した。「のらす(馬鹿にする)」「えんずい(居心地が悪い、煩わしい)」といった「大槌弁」の意味を教わりながら、このご縁をいただいたことに改めて感謝した。
私にとっては「きれいなお姉ちゃんがいる六本木の店で飲みたい」と言っていたご主人の希望を叶えられたことがせめてもの救いだ。「飲み過ぎてそのときの記憶が一切ない」という後日談をご家族から聞き、皆で笑えたのは何よりだった。
秋の大槌祭りでは獅子舞ならぬ「虎舞い」や多くの山車が登場し、街が独特の熱気と興奮に包まれる。日本の各地に伝わる、帰属意識やアイデンティティを喚起する伝統行事は、厳しい自然環境と過酷な日々があるからこそ、その意義も強まるのかもしれない。虎舞いとともに奏でられる軽快な笛の音、大きな神輿、人々の熱狂が待ち遠しい。
【取材・執筆 FNNプロデュース部長 山崎文博】
