かつてハンセン病にかかり、合志市にある国立療養所菊池恵楓園に隔離された少年が両親に送った手紙が見つかりました。手紙からは差別と偏見を恐れながらも社会へ戻ることを願う思いが伝わってきます。

【手紙】
「五月二十九日から六月十二日まで、神経痛がして入院しました。僕が入院してる事は、お伝えしませんでしたが、すみません。心配するのではないかなあと思って。今はすっかりよくなりました」

1960年、勝彦さんは小学6年生の夏休みに『ハンセン病』と診断されました。菊池恵楓園に隔離された暮らしの中で、両親に宛てて、手紙を書き続けました。

2017年に母親が亡くなり、遺品の中から67通の手紙が見つかりました。そのうち、13通が東京・東村山市にある国立ハンセン病資料館に展示されています。
※『お父さん お母さんへ ハンセン病療養所で書かれたある少年の手紙』
2025年12月27日(土)まで

【手紙】
「レクリエーションは八月五日にあり、大変楽しかったです。『かえで丸』という船は、きれいでとても早いです」

「盆おどりがありました。やぐらをたてて、みんな楽しくおどりました。社会の人もいっぱいきて、やぐらのまわりに、やく七百人ばかりの人がきました」

園の外の人たちを『社会の人』と書いた勝彦さんは、日々の〈楽しいこと〉を多く書いています。

【国立ハンセン病資料館 田代 学 主任学芸員】
「自分が療養所の中で頑張っている姿を多く選んで書いていたんじゃないかなと思いますが、そこから家族を思いやるところが伝わってくるんじゃないかなと思います」

隔離された患者からの手紙がまとまって見つかるのは非常に珍しいといいます。

【田代 学 主任学芸員】
「手元に置いていることで、家族にハンセン病の人がいると分かってしまうため、多くが手放されていったんじゃないかなと思います。ハンセン病隔離政策によって、社会に残る偏見、差別によって患者回復者とその家族は家族関係を断たれました。この手紙のやり取りは国の政策、社会の偏見、差別に対して、抗っていたと考えることができるのではないかと思います」

勝彦さんは、岡山県にある国立療養所『長島愛生園』にあるハンセン病患者のための邑久高校新良田教室に進学しました。

【手紙】
「こちらには山あり海ありで遊ぶには困りません。魚釣りによく行きます」

自然に囲まれ、希望に満ちた学校生活にも差別はありました。

【田代 学 主任学芸員】
「白衣を着た教師による授業に受けたり、教師に『参考書を買ってきてもらいたい』とお金を渡すんですが、そのお金を消毒液に(漬けて)消毒されたりなど差別的な対応を受けることになります」

病気の後遺症で勝彦さんの手は変形していて、社会復帰するために整形手術を受けるべきか。迷う胸の内もつづっています。

【手紙】
「このままの手で外に出て、社会の僕に対しての偏見がどうであろうと僕は強く生きていける、確信がありますが、やはり手術するしないを、自分の意志にまかしてみると、やはりするということに行きつきます」

また、この頃、祖母が亡くなっていたことを知り、怒りをあらわにしました。

【手紙】
「僕は今でもまだ祖母(ばあ)ちゃんが死んだと信じられません。まだ生きてるものとして毎日を過ごしています。それは何故だと思いますか。祖母ちゃんの亡くなる前にも会えず、葬式にも出れず、その上こんなに離れていてはどうしても死んだとは思えません」

就職して社会復帰を果たし、墓参りに行けたのは30代になってからでした。

【来館者】
「子供がこういう状況になって、こんな手紙が送られてくると思ったら、親のやるせなさも伝わってきますし、今後こういうことがあってはいけないなと思いました」

2000年、勝彦さんは『長島愛生園』を訪れ、高校時代の思い出の景色の水彩画を描きました。

現在、77歳。今回、『勝彦』という仮名での紹介を条件に手紙は公開されました。それは今も社会に差別や偏見が根強く残っていることを示しています。

勝彦さんが『社会の人』と書いた私たちはどうあるべきなのか、問われています。

テレビ熊本
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