2025年10月19日午前9時30分。
強盗団がフランス・パリのルーブル美術館に押し入ったまさにその時間、犯行現場からわずか数十メートルの館内に私はいた。
数秒後の事態など想像するわけもなく、日本から旅行で来ていた両親の写真を撮り、1歳の息子をベビーカー乗せて犯行現場の方向に向かって歩いていたのだ。
レオナルド・ダビンチの『洗礼者ヨハネ』を観賞していた時だった、暗闇の中からこちらに向けられた謎めいた微笑みに見入っていると、ドドドドドドッと地響きのような音が聞こえた。顔を向けると、十数人が全力疾走でこちらに走ってくるのが目に入った。
「テロかも、まずい」家族を連れて必死に避難
頭をよぎったのは、兵庫県の西宮神社の「開門神事福男選び」。
「なぜ?」と考えている間もなく先頭の男性と目が合った。必死の形相で逃げろと言っているように感じた。「テロかもしれない、まずい」と思いながらも「銃か?音は聞こえないな」とどこか冷静な自分に驚く。
パリに赴任する前に受講した危機管理研修で、元自衛隊のインストラクターから言われた「まずは命を守ることが最優。身の安全を確保してから次の行動を考えろ」という言葉を思い出し、家族と両親を連れて外を目指した。
逃げながらも人が走ってきた方向が気になり振り返ると、後に現場と判明する「アポロンの間」につながる大きな扉が閉められる所だった。
館内には「ゴーーー」という異音 避難は整然と
当然のことながら、あの時、あの場にいた誰もが何が起きているのか分かっていなかった。
記者:
何が起きた?
美術館スタッフ:
閉館!閉館です!! 閉めます。出口へ…。
こんなやり取りを繰り返しながら避難していた。パリ支局の同僚とのメッセージを見返すと、発生から30分後の10時ごろには「ルーブル美術館で強盗事件があった」というツイートを発見するも真偽が分からない状況が続いていた。
避難を続ける中で、私の父親と娘は「ゴーーーという何か響くような変な音が聞こえた、何か削っていたのではないか」などと話していた。
感心したのが美術館のスタッフたちの動きだ。落ち着いて避難を呼びかけ、観光客もパニックになることなく整然と避難していた。
私たちはベビーカーを使っていたので、同じくベビーカーを押していた人たちと共に別の動線を案内された。階段が非常に混在していたので、事故を誘発すると判断したのかもしれない。
事件発生からおよそ1時間、ルーブル美術館が「本日、特別な事情により閉館いたします」とSNSにツイートしたところから、詳細が少しずつ判明し世界中のメディアが事件を報じ始めた。
被害総額は約158億円 ナポレオン3世ゆかりの品など
強奪されたのはナポレオン3世の妻のティアラやブローチなど歴史的にも非常に価値の高い宝飾品8点。被害総額は8800万ユーロ相当で日本円で約158億円にのぼる。
事件直後の捜査当局の発表によると、現場にいたとみられるのは4人で、このうち2人が顔を隠しディスクグラインダーという金属の切断などに使われる工具を持ち、貨物用リフトを使って2階の窓から侵入している。
捜査の進展は早かった。事件から6日、捜査当局は2人の身柄を拘束。それを皮切りに11月末までに実行犯とみられる男4人と1人の女を起訴した。しかし、捜査のスピードとは裏腹に、2025年12月時点で宝飾品は発見されていない。
警察は建物の反対側へ「あと30秒早く気づいていたら…」
宝飾品はどこに消えたのか、最大の謎は残ったまま。ただ、事件から2カ月が経過し、警備体制の不備や初動でのミスも見えてきた。
フランスの上院に設置された調査委員会によると、犯人が侵入していた窓を映していた2台の防犯カメラのうち1台は機能しておらず、警備員がリアルタイムで映像を監視するためのスクリーンが不足していたことが判明。
そのため、警備員が犯行現場を捉えたカメラの異変に気づいたのは、犯行が行われた後だった。
また、近隣の警察署への通報内容が正確ではなく、出動した警察官は建物の反対側に誘導されていたことも分かった。間違いに気づき、警察車両が現場に到着した時に犯人たちとすれ違っていたものの、それにも気づかず取り逃がしていた。
調査責任者のノエル・コルバン文化庁総監察局長官は「あと30秒早く気づいていたら逃亡を阻止できたかもしれない」と指摘した。
いくつものミスが積み重なって、30秒の空白がぽっかりと出来ていたのだ。そのうえで、「以前から指摘されていたにもかかわらず、ルーブル美術館のなかで、窃盗のリスクが過小評価されてきた」と厳しく批判した。
館内は深刻な荒廃状態にある 仏政府に窮状を訴え
一年間でおよそ870万人と世界で最も観光客が訪れるルーブル美術館。なぜこの場所で、このような事態が起きるのか疑問に思うかもしれない。ただ、パリに赴任して以来、何度かルーブル美術館を取材している立場からすると、「想像しうる最悪のケース」という感覚がある。まさかそんなことが、と。
少し時計の針を戻した2025年1月、ルーブル美術館はフランス政府に対し「館内はいたる所に損傷があり、深刻な荒廃状態にある」として、改修などを訴える文書を送っている。美術館の内部について「防水性をなくした場所や、深刻な温度変化の影響で作品の保存が危ぶまれている」と指摘していた。
当時ルーブル美術館の中を撮影したが、ずらりと絵画が並ぶ展示スペースから少し視線を上げると、天井が一部剥がれ落ちていたことに驚いた。館内を歩けば、別の場所にも水漏れの形跡などがちらほら見られた。世界で一番有名な美術館がなぜこの有様なのか、本当に驚いたことを覚えている。管理体制もセキュリティも当然世界一だと思っていたからだ。
マクロン大統領の「新ルネサンス」改修計画
この窮状を受けて、マクロン大統領は1月にルーブル美術館を訪れ、モナリザの前で「新ルネサンス」と名付けた2031年の完成を目標にした大規模な改修計画を発表した。
ルーブル美術館の置かれた現状について「美術館の正面にあるピラミッドの入口は本来400万人を想定して設計されたものであり、現在の約900万人には対応しきれていない」「アクセスや安全面に制約があり、最良の条件での観賞が難しい」と想定の2倍の入館者が訪れている現状に危機感を示した。
皮肉なことに、この計画の中にはセキュリティの強化も含まれている。マクロン大統領は「新ルネサンスは、ルーブル美術館のインフラの改善にもつながる。何一つ取り残されることはなく、収蔵品の保護や監視カメラ、情報ネットワークなどあらゆる点が対象となる」と発言していた。まさか、9カ月後に監視カメラの作動していない場所があり、そこから押し入られるなどとは想像もしていなかったことだろう。
ちなみに、ルーブル美術館はEEA=ヨーロッパ経済領域の外から訪れた人の入館料を22ユーロから32ユーロ、日本円でおよそ4000円から5800円に値上げすると発表していて、増収分は改修計画の費用に充てられる。
ルーブル美術館で働く人たちからは今も悲痛な声が聞こえてくる。12月15日、美術館の待遇改善を訴えるストライキに参加していたサラさんは、普段は館内で受付などの業務を担当している。
話しかけると、せきを切ったように現場から見たルーブル美術館の課題を話してくれた。サラさんは「明らかに不足しているのは財政的および人的な資源だ。今回の事件で長年指摘されてきた問題が顕在化しただけ」と訴える。その上で、「人不足であらゆる対応が追いつかない」と訴える。
それもそのはず。11月には、老朽化した建物の強度に懸念があるとして展示室の一部が閉鎖されたほか、水漏れで数百冊の蔵書に被害が出るなど、事件以来、混乱が続いているのだ。
ルーブル美術館の使命は「継承と伝達」
1月には、「まさか、あのルーブル美術館が」と思い取材に出かけた。10月には「まさか、あのルーブル美術館に」と思い半信半疑でカメラを回した。
マクロン大統領は、ルーブル美術館の根源的な使命について「継承と伝達」と高らかに宣言したが、その役割を今、十分果たせているのだろうか。自らが語った「即時性や力強い言説が多くを魅了する今だからこそ、長い時間軸で文化芸術について語ることこそフランスが世界に発信するべき重要なメッセージ」という言葉が今改めて重みを持っている。
そんな場であり続けて欲しいと切に願う。
芸術、文化を守り続けてきたこの国の矜持に期待したい。
【執筆:FNNパリ支局 原佑輔】
