11月24日に80歳で亡くなった鎮西高校男子バレーボール部の畑野久雄監督。日本代表選手を数多く育てるなど、日本のバレー界の発展に大きく貢献してきた。鎮西高校を率いて51年。畑野監督の功績を振り返る。

「夢を描く」よう 選手育ててきた監督人生

記者が「バレーを見ている時は楽しい?」と尋ねると、畑野監督は「そうね、やっぱり〈夢を描く〉というか、〈こうしたらいいんじゃないかな〉とかね。いつもそういう気持ちで見ている。やっぱり〈選手をどう育てるか〉と、やっぱりそれが一番大事。〈育てられる間は育てよう〉と。口は悪いけど」と答えていた。

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あまり多くを語らず、的確な一言を短く選手に伝える。半世紀以上を鎮西バレー部の指導に費やした名将・畑野久雄監督。11月24日に心臓の疾患のため、この世を去った。80歳だった。

元々エースアタッカーとして実業団でも活躍してきた畑野監督。結婚を機に28歳で現役を引退し、1974年に鎮西高校で指導者の道を歩み始めた。

畑野監督は「一番最初は1回戦で負けたんですよ。ここの指導者になって。1回戦で負けて、その翌日に全員集めて『全国で勝つチームをつくる』と言ったら〈このおっさん、何言ってるんだろうか〉ってそんな感じでポカンとして見ていた」と振り返っていた。

しかし、わずか5年後には鎮西高校男子バレーボール部を九州チャンピオンに導き、春高全国大会に出場するまでのチームにつくり上げた。そして1993年にのちの日本代表、朝日健太郎を擁し春高全国大会で準優勝に輝くと、その2年後。双子の諸隈兄弟を擁し、インターハイで優勝。監督に就任して21年目で、ついに悲願の日本一にたどり着いた。

「人生の扉を大きく開けてもらった」

指導のモットーは「当たり前のことを当たり前に」。エースで打ち勝つバレーにこだわり、毎年、その世代を代表するエースアタッカーを育ててきた。

2016年の熊本地震では益城町の自宅が被災。長期間にわたって車中泊を続けるなど、厳しい生活を余儀なくされる中で、練習場所をなくした選手たちに「大変だろうけど、こういう時に頑張らなん。一人一人が自立して」と励まし続けた。

2006年には心筋梗塞、2017年には肺がんも患うなど、度重なる大病をも乗り越え、2018年、鍬田、水町のダブルエースを擁しインターハイで日本一に輝くと、春高全国大会でも21年ぶりの全国優勝を果たした。

数多くの日本代表選手を育て上げてきた畑野監督。その突然の知らせに元日本代表・朝日健太郎さんは「年明けの春の高校バレーに向けた、そんな連絡かなと思って〈頑張れよ〉っていう話をするもんだと思って、受話器を取って…まさか、まだ信じられない気持ち」と恩師の訃報に触れた瞬間を振り返る。

「『最後はエースが決めるんだろう』と選手に問いかけるわけです。それはやっぱり教え子たちはみんな分かって、自分たちなりにエース像を追い求める。それがまさに鎮西の強さなのではないか。バレーボールの指導はもちろん、高校の3年間、あの体育館で畑野久雄先生の下で指導を受けて〈人生の扉を大きく開けてもらった〉と思う卒業生が多いと思う」と話す。

日本代表・宮浦健人選手は「自分は中学3年間、高校3年間、畑野先生に教えていただき、今こういう自分がいるのも、畑野先生が教えてくれたものが土台となって、ここまで来られた。〈天国から見ているんだろうな〉という気持ちを持って、またこれまで教わってきたことを胸に精進していきたい」と話す。

高校3冠の偉業に挑む目前 教え子たちが挑戦

複雑なコンビバレーが主流となる中で最後までエースバレーを貫いてきた畑野監督。今年も岩下・一ノ瀬のダブルエースを中心にインターハイ、国スポを制し、通算10度目の全国制覇を達成。11月に春高全国大会への切符を獲得したばかりで、畑野監督にとっても初めてとなる高校3冠の偉業に挑む予定だった。

今後はOBでもあり、畑野監督の下で12年間、コーチとして携わった宮迫竜司コーチが監督のバトンを受け継ぐ。去年就任50周年を祝うパーティーで畑野監督は「鎮西を卒業した人が『元気です』と声をかけてくれること、今の選手が成長することが夢です」と今後の夢について語っていた。

一人一人の将来を思い、厳しくも優しく見つめ続けてきた51年間。亡くなる前日まで選手たちの指導に当たった。

「『頑張った証し』で『努力した証し』で自分が望むことが可能になるんだよ。頑張らんやつは可能にはならん」と口にしていた畑野監督。〈畑野イズム〉を受け継ぐ最後の教え子たちは年明け、東京体育館で集大成の舞台に挑む。

(テレビ熊本)

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