日本が太平洋戦争に敗れて80年の節目である今年。
山陰に残る戦争の体験や記憶を映像で残す企画を毎月、放送しています。
9月のテーマは「学童疎開」です。

福村翔平記者:
学童疎開は戦争末期、都会の小学生が空襲の危険が少ない地方へ学校単位でまとまって避難した国策です。
山陰両県にも都会の子どもたちが多く避難してきましたが、その疎開児童たちの生活について、今や年々少なくなる体験者の生の声を取材しました。

「こんにちは。」
「よろしくお願いします。」

大阪市在住の中山耕一さん、93歳。

中山耕一さん:
次の代の子どもたちを安全なところに避難させると。学校の先生が引率して疎開したんです。

昭和19年、大阪の国民学校6年生の時、親元を離れ、島根県に疎開しました。

中山耕一さん:
当時はまだ大阪に空襲は来ていませんでしたが、いよいよ本土まで、その危機が近づいているということから、島根県という本当に遠いところに行くんやなぁと。

太平洋戦争末期、日本本土への空襲が確実視されるようになると政府は、都市部の国民学校の児童を地方に避難させる方針を決定しました。
親戚を頼る「縁故疎開」が原則でしたが、地方に身寄りのない子どもたちは学校単位で「集団疎開」することになりました。

その数は全国で約40万人。
比較的、空襲の危険が少なかった山陰も受け入れ先となり、終戦までに島根県には大阪府を中心に約4500人、鳥取県には兵庫県から約2600人が親元を離れて疎開生活を送りました。

中山さんは大阪を離れた日、昭和19年9月22日のことを鮮明に覚えています。

中山耕一さん:
学校の校庭にみんな集まってそこで親と離れた。当時は親も子もそんなに泣いたりするような感じではなかったです。もうとにかく寂しいというよりも不安と、これから先どうなるんやと。

不安を抱えたまま、ほかの学校の子どもたちと一緒に集団疎開専用の夜汽車に乗り込み、出雲市の駅に到着しました。
そこから学校ごとに受け入れ先の旅館や寺院へ移動。
中山さんの学校は大社町の旅館「養神館」が生活の拠点となりました。

中山耕一さん:
毎朝、隊列を組んで稲佐の浜の海岸べりを軍歌を歌いながら歩いて大社中学校に行って、午前中は学校を借りて勉強をやっていた。昼に「養神館」に帰ってきて、すぐに昼ごはん。もうそれを待ちかねていた。

勉強や食事の面では不便を感じたことはなかったといいますが、最もつらかったことは。

中山耕一さん:
冬場の稲佐の浜の海風が寒い。シラミが朝、服の縫い目のところに血を吸って並んでいる。それをポツポツ指で潰していた。何事にも辛抱しなければいけなかった。

昭和19年の冬、山陰はまだ空襲の標的にはなっていませんでしたが、大阪の街はアメリカ軍による爆撃を受け始めた頃でした。
過酷な寒さに加え、帰りたくても帰れない辛さもあったといいます。

中山耕一さん:
いつも心の中で、大阪の家はどうなっているだろうか、と心配していました。それでも大阪に帰りたいといっても帰れることもないし、親からの面会といっても当時は大阪から島根へ行く汽車の切符が手に入らない。軍隊優先だから。

80年前、見知らぬ地での記憶。それは受け入れた側にもしっかりと刻まれています。

ここは、藤岡大拙さん(93)のお寺の本堂です。

藤岡大拙さん:
昔から本堂ですけども、戦争のためにはこういうものを提供しないと国賊扱いになるわけですから。

中山さんの学校とは別の大阪市の学校を受け入れた斐川町の寺。
当時12歳だった寺の長男・藤岡大拙さんには同年代の子どもたちと交流した記憶があります。

藤岡大拙さん:
やっぱり友達になりましたね。向こうは関西弁で、こっちは出雲弁しか知らんでしょ、よく通じていたなと思いますけどね。大阪の子どもたちが、昔でいう学芸会のようなものをやったのを私も見ていた。そこで「太郎冠者」なんて狂言をやるんです。そんなもの私は知りませんからびっくりしました。大したもんだ、大阪のほうのレベルは高いと思いましたよ。

中山さんやこの寺に来た児童たちは集団疎開のいわば第一陣で、島根では危険にさらされることもなく疎開生活は半年で終わりました。
しかし、空襲が激しさを増すなかでの帰郷。中山さんは島根から大阪に帰ってすぐ戦火に見舞われました。

中山耕一さん:
B29の大編隊が波状攻撃でどんどん来て、すごい爆音と地鳴りがした。

昭和20年3月13日、大阪大空襲大阪の中心部が一夜にして焦土と化した大阪大空襲。
焼け出された中山さんは命からがら数十メートル先の橋の下に逃げ込み、難を逃れました。

中山耕一さん:
焼野原。ブスブスと煙が上がっていた。死体もたくさん倒れていた。地獄絵図みたいで大変でした。

この大阪大空襲や同じころに起きた東京大空襲で、集団疎開する国民学校が増加。
島根でも再び多くの児童を受け入れましたが、疎開生活は第一陣の時とは一変しました。斐川町への疎開児童に引率した教員の日誌が残されています。

(昭和20年5月の日誌)
「壕もみんなで掘っています。もうすぐ私の背より深くなります。何よりも爆風を防ぎたいものです。」

山陰にも空襲の危険が迫る中、疎開児童も防空壕づくりに駆り出されていたことが分かります。
藤岡さんの寺にも、当時の子どもたちと戦争の関わり方がよく分かる物が残されています。

藤岡大拙さん:
疎開児童が大阪に帰るときに書いて残していったものです。

「報國」「武勇」「撃滅」
当時の子どもたちの戦争観が伺い知れる言葉が並びます。
次は自分たちが戦争へ、という思いが込められているように感じます。

藤岡大拙さん:
そうだと思いますよ。子どもたちは戦争のよしあしなんて考えたこともない。
「聖戦」という言葉があって、文句なく日本に分があって理屈がある戦争なんだと。だから最終的には勝つんだと。

戦火を逃れるための集団疎開。
しかし「安全地帯」にいるはずの子どもでさえも心身ともに戦争と密接につながざるを得なかったのです。

TSKさんいん中央テレビ
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