「ママ、私もみんなのところに行ってきていい?」
「いいよ。行ってらっしゃい」
2019年9月21日。山梨県道志村のキャンプ場で母がそう伝えて見送った娘、小倉美咲さん(当時7歳)は、それっきり行方が分からなくなり、2022年5月、死亡が確認された。
娘が見つかることを信じて捜し続けた母は、数々の誹謗中傷を浴び、人前で笑うことができなくなった。姉は、友達と話して笑っていることに罪悪感を覚え、学校に通えなくなった。
しばらくは受け入れることができなかった美咲さんの死。
しかし、今、母と姉はゆっくりと日常を取り戻そうとしている。
前を向き始めた家族
2025年1月。ザ・ノンフィクションの放送から2年。取材班は久々に小倉家を訪れた。母親のとも子さんに案内されたのは美咲さんの部屋。中にあった美咲さんの持ち物は以前より少なくなっていた。

「電子ピアノは、長女(美咲さんの姉)が通っているフリースクールのピアノが壊れたという話を聞いて、寄付しました。悩みましたけど、みんなで使ってくれたらうれしいなと思って」
2022年。かつて、この部屋は美咲さんが戻ってきたら使うであろうものであふれていた。
「大きくなったら使いたい」と美咲さんが言っていた、姉のお下がりの学習机。新学年の教科書に真新しい筆記用具。電子ピアノは、ピアノを習いたがっていた美咲さんが、帰ってきたら思う存分弾けるよう、とも子さんが用意したものだった。
今、時間を掛けてゆっくりとこの部屋の整理を始めている。
模様替えをしたリビングで、とも子さんが新たに迎え入れた“家族”を紹介してくれた。一昨年、多頭飼育崩壊で保護された犬を引き取ったという。
「人間の手を怖がっていたから、たぶん虐待もされていたと思うんです。これからこの子と一緒にいろんなことを経験して楽しい時間をつむいでいけるようにと、長女が“つむぎ”と名前をつけました」
姉は美咲さんの死亡発表以降、なかなか学校に行けない日々が続いている。代わりに、フリースクールに通うようになり、取材班が訪れたこの日は登校日だった。
とも子さんに姉の近況を尋ねると「長女なりに、少しずつ、前を向いているんです」とゆっくり口を開いた。
“どこにでもいる家族”に訪れた苦難
普通の家族だった小倉家の日常が一変したのは、2019年9月。
気心の知れた友人家族たちと共に、山梨県道志村でキャンプをしていた。おやつを食べ終えた美咲さんは、先に遊びに行った友人の元へ一人で向かった後、行方が分からなくなった。
直後から、警察や自衛隊による大規模捜索が行われたものの、有力な手掛かりは見つからないまま打ち切りに。

以降、とも子さんは毎週のように山梨県に通い、美咲さんの特徴などを記したチラシを配り、道行く人々に目撃情報の提供を呼び掛けた。さらに、広く情報提供を募るためメディアからの取材も断らずに受け続けた。
「美咲を見つけるために、思いつく限りのことは全部やったと思います」
メディアに出ると、美咲さんに関する情報提供は増える一方、とも子さんの境遇につけ込むように、宗教の勧誘や、行方不明者を探せるという自称霊能力者からの連絡も相次いだ。
そして、それ以上にとも子さんの心に大きな傷を与えたのが、捜索のために使用していたSNSに届くようになっていた恐ろしい言葉の数々だった。

「お前が犯人だろ」「自主(自首)しろ」「殺すぞ」「死ね」――。
さらに、動画配信サイトやネットメディアなどのコメント欄に書かれる心ない言葉の一つ一つも、とも子さんを苦しめた。
美咲さんの行方につながる有益な情報が載っている可能性もあると考え、細かいところにまで目を通していたのだ。
「なんか笑ってない?」
「なんでテレビに向かって普通に発信できるの?しかも半笑い」
「憔悴してる様子には見えない」
こうしたコメントを見るたびに、とも子さんはさらなる誹謗中傷を恐れ“本来の自分”から、“行方不明の娘を持つ親”としての振る舞いを余儀なくされていった。
「私が外で笑っていたら『娘が行方不明になったのに、よく笑えるね』と言われるんじゃないか」「『よく化粧なんてできる余裕があるね』とコメントで書き込まれるんじゃないか」
そう考えると、かつては人並みに好きだったマツエクやカラーリングなどのおしゃれはおろか、家の外で微笑むことすら、できなくなったのだ。
一方、姉は、美咲さんが行方不明になってから、学校を休みがちになった。とも子さんが当時の姉の様子を振り返る。
「『友達とうれしい話とか楽しい話をしていると、その時、美咲のことを考えてない自分がいて。美咲が学校に行けてないのに自分が学校に行って笑っていることが、美咲に対して申し訳ないっていう気持ちになっちゃうんだ』って涙を流していました」
「あの時、自分がもっとしっかりしていれば…」「美咲の代わりに自分が行方不明になればいいのに…」などと自分を責めることも度々あったという。
全ては、美咲さんが無事に戻ってくれば、元通りになるはずだった。
「まだ生きていると信じたい」受け入れられなかった訃報
事態が大きく動いたのは、2022年4月。突然、美咲さんが行方不明になったキャンプ場の近くで人骨が発見されたという連絡が山梨県警から入った。
DNA型鑑定の結果、骨は美咲さんのものと断定され、5月14日に警察は美咲さんが死亡したと発表した。それは、美咲さんの10歳の誕生日の翌日の出来事だった。
美咲さんの死亡発表から1カ月後。取材班がとも子さんのもとを訪ねると、憔悴してはいたが、覚悟が決まった表情をしていた。
リビングの本棚にはDNA型鑑定に関する書籍が10冊ほど並んでいた。姉が図書館に足を運び、借りてきたものだという。書籍にはいくつもの付箋が貼られており、目を皿にして読み込んだことがうかがえた。
「DNA型鑑定が間違っている可能性はないのか、ずっと長女と調べていました。どの書籍にも“100%”とは書いてないんです」
とも子さんはそう口にすると、毅然とした態度で、カメラに向かって話し続けた。
「0.001%だとしても、生きている望みがあるなら、それを信じたい」
「今、美咲がどこかで報道を見ながら、“私ここにいるよ”って訴えているのだとしたら、その声に耳を傾けるのが家族のやるべきことなんじゃないかなと思っています」
美咲さんが生きていると信じる――。これは、美咲さんの姉とも話し合った上で、決めたことだという。
一方で、“生きている”と信じているものの、美咲さんの死亡発表は姉に深刻な影響を与えていた。休みがちながらもどうにか通っていた中学校も、訃報の後は、ほとんど行けなくなった。
「信じたい気持ち」と「不安」な気持ち。一日の中でも、こうした感情が交互に押し寄せ、何度も、大きな不安に押しつぶされそうになっていたように、とも子さんには見えたという。

そんな姉の様子を見て、とも子さんは考え始める。
「私は美咲の母として、その責任を負いながら生きる覚悟はあります。でも、長女にまでそれを背負わせるのは、絶対に違う。長女には長女の人生がある。『妹が行方不明だから、自分も幸せになってはいけない』とは思ってほしくない。自分の人生を自分らしく歩んでほしい」
美咲さんの死亡発表から4カ月後。とも子さんは、捜索に使っていたホームページに文章を投稿した。これまで捜索に協力してくれた人々に感謝の意を表しながら、美咲さんへの思いをつづった。
「あの場所で一人で自分を見つけてもらえるのを待っていたのだとしたら…。母親の私がこのまま受け入れないと言い続けたら美咲が悲しむのではないか…と考えるようになりました。(中略)守ってあげられなくて本当にごめんなさい。帰ってきてくれてありがとう。おかえりなさい。と伝えたいです」
とも子さんは、美咲さんの死を受け入れた。姉が自分の人生を自分らしく生きていくためにも、まずは、とも子さん自身が一歩を踏み出すことが必要だと思っての行動だった。この日は、美咲さんが行方不明になってから、ちょうど3年が経っていた。
「暗い顔をしていたら美咲が悲しむと思う」
美咲さんが行方不明になってからおよそ5年半。今、家族は元の穏やかな生活を取り戻しつつある。
とも子さんは、自身が営むトリミングサロンの現場に戻り、トリマーとして大好きな動物と接する日々を過ごしている。人目を気にしてできなかったおしゃれにも気を使う気持ちが少しずつ出てきた。
「長女が自分の身だしなみに気を使う年齢になってきて、『友達の〇〇ちゃんのお母さんは若いのに、ママはおばさんだよね』とか言うんです。頑張らないと」
姉に自分らしい人生を歩んでもらうためには、まずはとも子さん自身が自分らしく生きている姿を見せる必要があると思い、日々を過ごしている。

そんなとも子さんの姿勢を見て、姉は自分のやりたいことを話すようになった。それが「フリースクールに通いたい」ということだった。
「長女は、美咲の命が終わってしまったことを受け入れることができたと思います。『私たちがこの世で生きている意味があると思うから、天国で見ている美咲のためにも笑顔で生きていきたいね』と話ができるようになりました」
4月からは高校への進学も決まった。最近は「悩みを抱える人に寄り添える仕事に就きたい」と将来についても語るようになった。
「『つらい思いも苦しい経験もしたから、そういう思いを持っている人に寄り添いたいんだよね』って」
とも子さんは、やりたいことを見つけた姉についてうれしそうに語ってくれた。
「『一生懸命生きてきたよ』と胸を張って会えるように、生きていきたいと思っています」
とも子さんがそう話すリビングには、今も美咲さんの写真が飾られている。
取材・記事/藤田成(日本電波ニュース社)