南三陸町の佐藤仁町長です。2002年から旧志津川町長を1期、2005年からは合併した南三陸町の町長を5期務めてきましたが、9月11日、引退を表明しました。

南三陸町 佐藤仁町長
「私は6期24年間にわたりまして、この職を務めさせていただきましたが、今任期をもちましてこの職を辞したい…と思います」

9月11日、引退を表明した佐藤町長。佐藤町長は14年半前の東日本大震災が発生した際、町の防災対策庁舎の屋上で津波にのまれ、命を落としかけた当事者でもありました。

佐藤町長と共に助かった職員は10人。一方で、職員など43人は死亡または行方不明となりました。

南三陸町 佐藤仁町長(2011年3月14日)
「せっかく10人しか残らなかったわけですから、なんとか我々だけでも生き延びようということで、みんなで励まし合いながら、朝まで頑張りました」

被災直後、佐藤町長は肋骨が折れ、手には穴が開く大けがをしていました。しかし、役職は「町長」です。震災後も寝ているときに溺れる夢を見たほか、車の洗車場でフロントガラスに水が吹きかかってきた際にはパニック状態になるなど、心に傷を負いながらも職責を果たしてきました。

南三陸町 佐藤仁町長(2024年8月)
「この町の再生した姿を一番見たいと思ったのも自分だし、もっと見たいと思っているのはここで被災した、亡くなった43人の方々が、この町がどういうふうに復興したのかっていうことを、この方々が一番待ち望んでいるんじゃないかと私は思っている。だから、彼らのためにも、ちゃんと最後までしっかり復興の姿見せなきゃいけないなとはずっと思ってこれまできましたので」

そうして、復興の舵取り役を務めてきた佐藤町長ですが、復興に向けた大きなテーマの1つが、自身が被災した防災対策庁舎の保存の是非でした。

賛否が分かれる中、紆余曲折を経て佐藤町長が去年3月に出した結論は、庁舎を震災遺構として残すことでした。

南三陸町 佐藤仁町長
「最初の頃にね、防災庁舎反対だという方々も結構いらっしゃったが、月命日になると、だんだんそういった方々もここにおいでになって、手を合わせるようになったりとか、あるいはこの公園の整備、当時反対だったという方々が、この場所で草を刈ったりとか、花を生けたりとか、そういうような活動をずっとしてくれるようになって、だんだん皆さんがこの防災対策庁舎に対する思いというのが、当初とやっぱり随分変わってきたなっていう思いは肌でずっと感じていましたので、そういったのが非常に自分の判断、いつの時期に町有化するかっていうことについて、そこが少し大きかったかなというふうに思いますね」

防災対策庁舎では、東日本大震災の発生から14年半となった9月11日も、あの日何が起きたのかを伝える語り部が行われていました。

広島から
「庁舎のもともとの写真を見せていただいて、すごくしっかりした建物が津波で、こんなになってしまうということで、すごくショックを受けました。上から見たときに、ここに街があったと伺ったので、こんなに広い敷地がまっさらになっちゃったんだというところが、すごく心にくるものがありました」

復興に向け、最前線で陣頭指揮を執り続けてきた佐藤町長。議会の場でも思いが溢れました。

南三陸町 佐藤仁町長
「きょう9月11日は、東日本大震災で奈落の底に突き落とされてから14年6カ月の月命日であります。東日本大震災では、831人の町民の皆さんが犠牲、行方不明となって、6割を超す住宅、商店、工場が流出するという、まさに未曾有の大災害でありました。防災庁舎の屋上から見たあの町の惨状は、きのうのことのように思い出されますし、多分、生涯忘れることはない痛恨の出来事でありました。あの日から心に誓ったことがあります。1つ目は、町を再建するという私に与えられた使命を必ず果たさなければいけないということ。それから、どんな困難があっても絶対に諦めてはいけないということ。そして、気持ちが折れても気力だけはしっかり保とうと、そう思いながらこの14年半歩いてきました。おかげさまで、全国の皆さん、世界の皆さんの強い後押しを受けて、南三陸町の復興を成し遂げることができました。改めて全ての皆さんに感謝を申し上げたいと思います。改めて私の使命は全て終えたと思います。本当にありがとうございました」

最後は拍手で見送られながら議場を後にしました。

そして、議会閉会後に会見を開いた佐藤町長。決断の理由は「今の任期で復興事業が終わったことが一番大きい」と述べました。

南三陸町 佐藤仁町長(Q.今の心境は?)
「今の心境ね、意外とすっきりしました。肩の荷が下りたなという思いはしましたね」

また、東日本大震災発生当時を振り返り、次のように述べました。

南三陸町 佐藤仁町長
「震災があって自分で思ったのは、頂きの見えない山に登るという思いをずっとしていました。山の山頂が見えないところに登っていくという、いつになったらゴールになるの?というのは、そこがずっと自分としては苦しかったと思っているし、生き残った我々が再建を託されたから頑張らないといけないなという話はしたんですよ。あれが、復興14年半歩いてきていての原点………だな」

町長として、または、いち被災者として。教訓は伝えていきたい、そう話しました。

南三陸町 佐藤仁町長
「風化ってね、私はまったく悪いことではないと思っているんですよ、つらい経験をいつまでも引きずらないで、ある意味忘れてしまうというのも決して悪いことではない。私が言う風化させてはだめだと言っているのは、教訓を風化させてはだめだということ。教訓はちゃんと教訓として伝えないといけない。そういうことを私は言いたい」

佐藤町長の決断に町の人たちは…。

「残念やら、やっぱり一区切りかなという感じ。立派だなと思いました」
「本当にご苦労さまでした。おかげさまでこんなに素晴らしいまちになりましたもんね」
「東日本大震災から14年と6カ月、大変大変本当にご苦労さまでしたの一言ですね」

一方、南三陸町に隣接する気仙沼市の菅原茂市長。県内の沿岸被災地で震災当時から自治体のトップを務めるのは、これで菅原市長だけとなります。

気仙沼市 菅原茂市長
「常に適切かつ正しい判断をする人だという思いが強いので、大先輩として指導してもらったし寂しい」

また、村井知事は…。

宮城県 村井知事
「本当にお疲れ様でございましたと。まさに戦友のような関係なんです。東日本大震災の後ですね、本当苦しかったんです。私も苦しかったですけど、町長も苦しかったと思います。震災1カ月後くらいに『村井さん、何とかなるから、何とかなるから、元気でいようよと。我々は村井さんを支えるから、村井知事を支えるから安心してやってほしい」というような激励を頂いたことを、今でもよく覚えています」

このように述べ、「震災後の街づくりを確実になされたのは高く評価して良いのではないかと思う」と労をねぎらいました。


南三陸町長選挙は10月21日告示、26日投開票で、前の総務課長の千葉啓氏(59)が立候補を表明しています。

仙台放送
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