カメラマンがファインダー越しに見た1995年は、歴史の分岐点だった。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件…など日本社会を揺るがす出来事が相次いだこの年。カメラマンたちはレンズを通して、“時代の転換点”を捉え続けた。

単なる「時代の記録者」としてではなく、「時間と空間を切り取る職人」としてカメラを担ぎ、日本だけではなく、世界各地で起きる出来事に立ち会ったカメラマンたちの記録をここに残す。

日本人が“海の向こう”で挑戦

1995年、日本では阪神・淡路大震災という未曾有の災害に見舞われた。同じ年、海の向こうでは“一人の日本人”が未知の世界に挑戦していた。

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野茂英雄。野茂のメジャーリーグ挑戦は、当時の日本人にとって想像すらできなかった冒険だった。

当時26歳の野茂は、近鉄バファローズとの契約問題から「任意引退」という異例の形でメジャーリーグへの道を選んだ。ロサンゼルス・ドジャースとの契約を勝ち取った野茂は、日本時間の5月3日、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たす。

その独特の投球フォームと鋭いフォークボールで、一躍メジャーリーグファンの注目を集めた。

日本人カメラマンが見た野茂英雄

「メジャーリーグに日本人が来るって誰も思ってなかったと思うので、全てが初めてです。私だけじゃなく、こちらにいるカメラマン、放送に関係する人全てが、メジャーリーグと日本人というのが結びつかなかったと思うんですね」

松本克巳カメラマン
松本克巳カメラマン

そう語ったのは、野茂のメジャー挑戦1年目を現地で撮影していた松本克巳カメラマン。現在もアメリカで撮影をし、長年日本人メジャーリーガーの取材をしている。松本はカメラマンとして、野茂の前例なき挑戦を捉えた。

「トルネード投法」。体を大きくひねり、バッターに背を向けるようにして投げるその独特のフォームと、大きく落ちるフォークボール。野茂の代名詞と言える投球スタイルを捉えるのは、カメラマンにとっても挑戦だった。

原田謙カメラマン
原田謙カメラマン

元スポーツカメラマンで、野茂をキャンプ時から撮影していた原田謙カメラマンは、野茂のフォークボールを撮影した時の衝撃をこう語った。

「一塁側のカメラ、下カメっていうところに入った時に球をフォローしたことあるんですね。野茂さんの足から頭までの全身が入るサイズをどこも切れないように全身を撮るのですが、球をずっとそのままフォローして、キャッチャーまで。ただ、普通だったらキャッチャーミットのところの高さに来るボールが、キャッチャーがほとんどもうショートバンドを取ってるんですよね。それは別に失投でも何でもなくて、そういうボールなんです」

野茂のトルネード投法を撮影することは、カメラマンにとっても技術的な挑戦だった。特にフォークボールの落差を捉えることは至難の業だった。

メジャーリーグの打者たちも同様に、この“魔球”に翻弄された。6月に初勝利を掴むと、そこから6連勝を記録、野茂の名は全米に轟いた。

「球のアップでは絶対フォローできないので、全身の入ったサイズでボールをずっと追いかけるんですけど、その時に若干ズームするんですね。キャッチャーのミットに入るところは撮りたいから、そこまで追っかけるんですけど、ミットに行くはずのボールがベースの上に落ちるんですよ。それだけ落ちてるわけで、ボールがなくなるっていう感じ」と原田は説明した。

松本も、野茂のピッチングを撮影する難しさを語った。

松本克巳カメラマン
松本克巳カメラマン

「撮影してた時は33倍のレンズを使って、なるべくみんな手元によってフォークの握りを撮ろうとしたり、野茂さんがピアッツァとのサイン交換の時の表情を取ろうとしたり。野茂さんに少しでも近づこうとして撮ってたのは事実だと思うんですね」

カメラマンたちも次第に、野茂の“リズム”を掴んでいった。

「これは多分カメラマンも慣れてくるんだと思うんですね。野茂さんのリズム、ボールを握って投げるまでの呼吸とか、そういうのがカメラマンも捉えていけるようになるので、それでタイミングが合ってくるんだと思います」

メジャーリーグという舞台に、最初は緊張していた野茂の表情も、徐々にリラックスしていったと原田は話す。

「野茂さんは投げてるのを野手はみんな後ろからとか横から見てるわけですよね。どっちかって言うと、野手の人たちの方が認めてきた。野茂さんがやってることを野手たちにだんだん広まってきて。野茂さんもどっかに不安はあったかもしれないけど、そのチームメイトの姿も感じ取って、通用するぞ、これでやっていけるぞというのは間違いなくあったと思うんですね」

オールスターゲームに先発投手として出場

1995年7月12日、野茂はナショナルリーグの先発投手として、オールスターゲームに出場した。

日本人初のオールスター出場であり、先発という大役を任されたことは、野茂の実力がメジャーで認められた証だった。原田はその瞬間をこう振り返った。

「先発するとは思ってなかったし、オールスターに選ばれるっていうのは、アメリカでもすごいことなんで。初めての年にオールスターの舞台に立って、先発ピッチャーで選ばれて。ちょっと考えられないぐらい、メジャーもアメリカのファンも、びっくりしたと思いますよ」

オールスターゲームでの野茂の活躍は、その期待に応えるものだった。野茂は2イニングを投げ、3奪三振1安打無失点と好投。アメリカン・リーグの強打者を三振に切って取る姿は、全米のファンを魅了した。

“野茂フィーバー”

野茂の活躍は“野茂フィーバー”と呼ばれる社会現象を引き起こした。松本は、ロサンゼルスでの熱狂をこう振り返った。

松本克巳カメラマン
松本克巳カメラマン

「当時はまだ、日本からの観光客もすごく多かったんですよね、ロサンゼルスに。そうするとその人たちのお土産はもう決まって、16番の野茂さんのTシャツでしたし、街中の“リトル東京”っていうエリアにオフィスがあったこともあるんですけど、そこはもうどのお店でもグッズショップも野茂さんのグッズ、それを売ってないお店がなかったです」

実はメジャーリーグでは前年度、サラリーキャップ制導入を含む新労使協定を巡り、球団経営者側と選手会が激しく対立。その結果、1994年8月12日から選手会はストライキに突入し、シーズンは途中で打ち切り、ワールドシリーズも中止していた。その影響もあってか、メジャーリーグの観客動員数は激減、低迷期の真っ只中であった。

そんな中で、野茂の活躍はメジャーリーグにとって、アメリカの野球ファンにとって「救世主」だった。日本国内だけでなく、アメリカのメディアも野茂の活躍を大きく取り上げ、“トルネード旋風”が巻き起こっていた。

「野茂さんの時の盛り上がりっていうのは、今の大谷さんっていうのも色んなブームありますけど、もしかしたらもっと凄かったんじゃないか、僕の中ではそう思ってます」

カメラマンたちにとっても、野茂との1年は特別なものだった。

「野茂さんが来て、撮影の仕方とか、見るものも全然今までと違う世界でしたから、自分に影響を与えることだったと思います。楽しかったです。今も、このメジャーリーグに携われてすごく楽しいです」

松本にとって、野茂の撮影は単なるカメラマンという仕事を超えた経験だった。それまでは主にエンターテイメント関連の撮影が中心だったが、野茂の登場によってスポーツカメラマンとしての新たな一面を開拓することになった。

現在もドジャースで活躍する大谷翔平
現在もドジャースで活躍する大谷翔平

その後、イチロー、松井秀喜、大谷翔平など、多くの日本人メジャーリーガーを撮影することになるが、その原点には野茂英雄の1年目があったのだ。

野茂が切り開いた道

野茂は1995年のメジャー1年目のシーズン、13勝6敗、防御率2.54、236奪三振という成績を残し、新人王に選ばれた。野茂が切り開いた道は、その後に続く、多くの日本人メジャーリーガーたちに受け継がれていった。

松本克巳カメラマン
松本克巳カメラマン

「野茂さんは最初に渡米する時、本当に日本で批判を買った。しかし、こっちがストライキで進まない中で活躍して、功績は測り知れないと思いますよ。記録を塗り替えてる選手はたくさんいると思います。イチローさんにしても、大谷さんにしても。でも、やっぱりゼロの状態から作り上げたのは、野茂さんだったと思います」と松本は語る。

原田も野茂の功績をこう評価した。

原田謙カメラマン
原田謙カメラマン

「明らかに野茂さんの残した実績っていうのは、後輩たちにものすごく伝わってると思いますね。本当に『橋渡し』。これから野球をやる選手、日本の選手でも頑張ったらメジャーでもやっていけるよっていう大きな橋をかけてくれたかもしれませんね」

カメラマンのレンズが捉えた1995年の野茂英雄。その姿は、日本人メジャーリーガーの歴史の始まりであり、世界への扉を開いた瞬間だった。

表情を変えない「仏頂面」と言われた野茂だったが、カメラマンたちは彼の微妙な表情の変化や隠れた努力の姿など、貴重な瞬間をしっかり捉えていた。

5月18日(日)18時より放送の番組では、当時の映像と共に、野茂英雄のプレーだけでなく、表情や知られざる姿を撮影した松本・原田カメラマンの証言から紐解いていく。地区優勝のかかったシーズン最終戦を撮影していた松本カメラマンと野茂の知られざるエピソードがあった。

激動の1995年を記録したカメラマンたちが語る歴史の瞬間「カメラマンが捉えた1995」  
・5月18日(日)18時00分〜19時55分  
・BSフジで4K放送

撮影中継取材部
撮影中継取材部