カメラマンがファインダー越しに見た1995年は、歴史の分岐点だった。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件…など日本社会を揺るがす出来事が相次いだこの年。カメラマンたちはレンズを通して、“時代の転換点”を捉え続けた。

単なる「時代の記録者」としてではなく、「時間と空間を切り取る職人」としてカメラを担ぎ、日本だけではなく、世界各地で起きる出来事に立ち会ったカメラマンたちの記録をここに残す。

阪神・淡路大震災発生

1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。戦後最大の都市災害となった阪神・淡路大震災は、6434人の尊い命を奪った。

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この未曽有の災害を最前線で記録したのが、報道カメラマンたちだった。彼らは何を見て、何を感じ、どのように記録したのか。フジテレビのカメラマンとして、現場に駆けつけた彼らの証言から報道の使命に迫った。

発生直後の現場へ

「とにかく神戸の方へ向かってくれ」

フジテレビのカメラマンだった秋本泰男は、震災発生当日の朝、会社に出社するや否や、羽田空港へと向かった。撮影クルー4名で飛行機に乗り込み、徳島空港から陸路で淡路島へと入った。

秋本泰男カメラマン
秋本泰男カメラマン

「家を出る時点で空撮映像などから状況の深刻さは把握していました。現地では食料も水も確保できないだろうと予測し、会社への出社途中や羽田空港で必要な物資を調達しました。取材を円滑に遂行するための体制を整えることを最優先に考え、あとは現場での判断に委ねるしかありませんでした」

 一方、同じくフジテレビのカメラマンだった山田次郎は、朝のワイドショー「おはよう!ナイスデイ」の取材に向かうための準備中に、震災の一報を受けた。

「カメラマンになってわずか1年半ほどでした。これほど大規模な取材は経験したことがなく、現場に向かう際は相当な緊張感がありました」

山田次郎カメラマン
山田次郎カメラマン

山田も徳島空港から淡路島に入った後、フェリーで兵庫・明石市へ渡り、神戸市へと向かった。

「神戸に近づくにつれ、空がオレンジ色に染まっていくのが見えました」

オレンジ色に染まる街 煙が立ち上る様子も確認できる(震災当日の神戸市上空から撮影)
オレンジ色に染まる街 煙が立ち上る様子も確認できる(震災当日の神戸市上空から撮影)

「これは火災だと直感しましたが、空全体がこれほど色づくということは、想像を超える規模の火災が発生しているのだろうと恐怖を感じました。どのような現場が待ち受けているのか、不安と恐怖が徐々に増していきました」 

待ち受けていたのは想像を絶する光景

現場に到着した彼らを待っていたのは、想像を絶する光景だった。

秋本は神戸・三ノ宮の駅付近で撮影していた時の様子をこう振り返る。

「ビルが立ち並ぶ通りやダイエー、銀行などの建物が倒壊し、ガラスが割れている中で撮影していると、異様な静けさに包まれていました。しかし時折、風なのか余震なのか判然としませんが、瓦礫が崩れる音やガラスが散る音が鮮明に聞こえてきました」

「普段は人や車で賑わう三ノ宮の駅前で、わずかな埃の動く音さえ克明に聞こえる状況は非常に不気味でした。この瓦礫の下に声を出せずに埋まっている人がどれほどいるのだろうかと、言いようのない不安に襲われました」

神戸市長田区に到着した山田は、大規模な火災現場に遭遇した。

「視界に入る街全体が炎に包まれている状況でした。もはや消火活動というレベルを超え、逃げ遅れた人々の救助すら困難な状態でした。この火災がどこまで広がるのか、いつ鎮火するのか、ただ燃え尽きるのを待つしかないのではないかという不安を抱えていました」

炎に包まれる建物(神戸市長田区)
炎に包まれる建物(神戸市長田区)

「最も印象的だったのは、あれほどの大火災の中で、住民の方々が静かに立ち尽くしていたことです。火を消せと叫んだり、助けを求める声が飛び交うような状況ではなく、皆が静かに諦めの表情で見守っていました。消火活動よりも、ただ燃え尽きて終わることを祈るしかない状況だったのでしょう」

東京から、当時「TIME:3」を担当していた笠井信輔アナウンサーとともに現場に入った野沢孝司カメラマンも、「爆発が起きた時は本当に危険を感じた」と当時の緊迫した状況を振り返った。

野沢孝司カメラマン
野沢孝司カメラマン

「印象に残っているのは火事の現場です。笠井さんと私で『退こう、退こう』と話しながらも、少し近づきすぎてしまった場面がありました。爆発が起きた時は本当に危険を感じました。現場では皆が必死で、どのような状況になるか予測もつかない中、ただひたすらカメラを回し続けるしかありませんでした」

秋本は、神戸市長田区での取材中に、思いがけない体験もしていた。

「長田区で撮影していた時、足元がベタベタするのを感じました。何だろうと思って見てみると、地面の熱が強すぎてスニーカーの裏が溶け始めていたのです」

秋本泰男カメラマン
秋本泰男カメラマン

「それほど地面が熱くなっているとは思いもよらず、驚きました。長時間火にさらされた地面の熱さを身をもって体験し、火災の凄まじさを実感しました。熱さを感じる余裕もないほど撮影に集中していましたが、これ以上前に進むのは危険だと判断し、距離を取りながら取材を続けました」

報道カメラマンたちの葛藤と使命

被災地でカメラを回し続けることの意味と葛藤。カメラマンたちはそれぞれの思いを抱えながら撮影を続けていた。

野沢は「被災された方から『何も持ってきていないのか』と問われ、申し訳なさを感じました。差し入れなど何かできることがあればよかったのですが、そうした準備もなく、現場に入ったことに心苦しさを覚えました」と話す。

野沢孝司カメラマン
野沢孝司カメラマン

「自分自身が被災者ではない以上、取材する側として被災者の本当の気持ちを完全に理解することは出来ないかもしれません。しかし、少しでも被災者に寄り添う姿勢で取材することを心掛けました。後になって思うのは、ただ質問を投げかけるのではなく、もう少し引いた立場から被災者の心情に配慮し、聞き役に回るべきだったかもしれないということです」 

秋本も葛藤を抱えていた。

「このような大規模災害は日本国内だけでなく、世界中に伝えるべきだという使命感がありました。当時はまだ、今日のようなプライバシーへの配慮が厳しく問われる時代ではありませんでしたが、それでも人命を第一に考えながら行動し、将来への教訓となるような記録を残すことを意識していました」

被災者に話を聞く様子
被災者に話を聞く様子

「人命救助と取材活動という二つの使命を、どうバランスよく果たすかは非常に難しい判断でした。目の前で命の危機に瀕している方がいる状況で、ただカメラを回し続けることは出来ません。人命救助と記録を残すという使命の間で、常に判断を迫られましたが、ディレクターやキャスターとも相談しながら、最善を尽くしたと思います」

報道のあり方をそのものを問い直す

阪神淡路大震災の取材は、報道のあり方そのものを問い直すきっかけとなった。

山田は、当時の取材姿勢を振り返る。

「30年前は、テレビ取材に対して『多少のことは許される』という風潮がありました。避難所にも躊躇なく入り込み、被災者の心情を考慮せずに取材を進めることもありました。被災者がどう感じているかより、私たち取材側が知りたいことを優先し、自分たち主体で取材を進めていたのが実情です」

山田次郎カメラマン
山田次郎カメラマン

「阪神淡路大震災の時は避難所にも遠慮なく入り込んでインタビューをしていましたが、東日本大震災の頃になると、プライバシーへの意識が高まり、避難所の入口までは行っても中に入る際は細心の注意を払うようになりました。報道のあり方は、時代とともに大きく変化してきたのです」

「時代の記録者

1995年は阪神・淡路大震災だけでなく、地下鉄サリン事件や野茂英雄のメジャーリーグ挑戦など、日本社会の大きな転換点となった出来事が相次いだ。これらの歴史的瞬間を最前線で記録した報道カメラマンたちの証言は、単なる過去の回顧ではなく、現代社会を理解するためにも重要な視点となる。

山田は報道カメラマンの役割をこう話す。

山田次郎カメラマン
山田次郎カメラマン

「私たちは時代の記録者だと思います。災害や事件が起きた時、その瞬間を記録することで、後世の人々がその時代を理解する手がかりを残します。昭和世代、平成世代、令和世代と呼ばれる時代区分も、実はそれぞれの時代に起きた出来事によって特徴づけられています。そうした重要な出来事を映像として残し、伝えていくことが私たちの役割なのです」

阪神・淡路大震災から30年。報道カメラマンたちが記録した映像は、単なる過去の断片ではなく、未来への警鐘であり、教訓である。彼らの証言を通じて、私たちは改めて災害報道の意義と、記録を残し続けることの重要性を考えさせられる。

 焼け野原になった神戸・長田区
 焼け野原になった神戸・長田区

野沢カメラマンも当時を振り返った。

「地震が起きてすぐに現場に入った状況でしたから、正直、皆さんも呆然としていました。今後どうしたらいいのか、その場その場で助け合うしかない状況でした。私たちカメラマンは、その混乱の中で何を伝えるべきか常に考えながら撮影を続けました。あの経験は私のカメラマン人生において大きな転機となりました。災害報道を通じて、単に映像を撮るだけでなく、人々の心情に寄り添いながら真実を伝えることの重要性を学びました」

秋本カメラマンは最後にこう語った。

「震災から30年が経ち、神戸の街は見事に復興しました。しかし、私たちが記録した映像には、あの日の現実が生々しく残されています。地震による火災、高速道路の崩壊、倒壊した建物群。これらの映像は、将来の防災対策や都市計画に活かされるべき資料です」

秋本泰男カメラマン
秋本泰男カメラマン

「カメラマンとして、私たちはただ悲惨な光景を撮影したのではなく、未来への教訓を残したのだと信じています。そして今もなお、その使命は続いているのです」

報道カメラマンたちが捉えた1995年の記憶は、時代を超えて私たちに語りかける。それは単なる過去の記録ではなく、未来を生きる私たちへの重要なメッセージともなっているのだ。

激動の1995年を記録したカメラマンたちが語る歴史の瞬間「カメラマンが捉えた1995」  
・5月18日(日)18時00分〜19時55分  
・BSフジで4K放送

撮影中継取材部
撮影中継取材部