オウム真理教による地下鉄サリン事件から10日後の1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負った。

教団幹部・井上嘉浩元死刑囚の証言で事件との関与が浮上した、オウム信者であり警視庁の現役警察官でもあったXは、涙ながらに「警察庁長官を撃った」と証言した。
しかしXの供述がデタラメばかりで、事件の目撃者も「犯人じゃない」と証言したことなどから、東京地検は犯人性が薄いとしてXの立件を見送った。

発生から9年経った2004年、捜査本部が地道な捜査を続けるなか、Xやオウム真理教関係者合わせて4人が逮捕された。

2010年に未解決のまま時効となったこの事件は、発生から30年を迎えた。
入手した数千ページにも及ぶ膨大な捜査資料と15年以上に及ぶ関係者への取材を通じ、当時の捜査員が何を考え誰を追っていたのか、「長官銃撃事件とは何だったのか」を連載で描く。

(前話『オウム信者4人に逮捕状請求…教祖・麻原側近信者のメモ「弾のしゅるい→発表」長官銃撃事件発生から9年で迎えた山場』はこちらから)
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X元巡査長らを七夕に逮捕

事件発生から苦節9年、2004年7月、警視庁南千住署特捜本部はX元巡査長、矢野隆(仮名、教団幹部)、金子牧男(仮名、教団信者)、河本道夫(仮名、教団幹部)が長官銃撃事件に関与したとみて、ついに逮捕状を取った。

警察にとって悲願の時を迎えたと言っていい。ここに至るまで強制捜査に打って出たい警視庁と、証拠が不十分だと主張する東京地検の間で侃々諤々の議論があった。

1996年に「自分が撃った」と供述したXについて、翌97年6月、起訴を断念した時とは違い、捜査は明らかに進展を見せていた。

国松長官が銃撃された現場 1995年3月30日
国松長官が銃撃された現場 1995年3月30日
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個々のオウム信者が長官事件のあった95年3月30日の前後、荒川区南千住の現場周辺での下見をはじめ、なぜこんな活発な動きを見せていたのか。そしてなぜXが嘘を嘘で塗り固め、右だ左だ、縦だ斜めだという虚実を織り交ぜた供述をあえて展開しなければならなかったのか。オウムの犯行ではないのであれば、Xが虚に吠える必要性が何故あったのか、追及されなければならなかった。

Xのコートの溶融穴を鑑定したスプリング8
Xのコートの溶融穴を鑑定したスプリング8

犯行に使われた拳銃は未発見であり、特捜本部は実行犯特定のための決定的な証拠を持っていなかった「犯人の逃走支援のため現場に行った」というX供述に加え、現場周辺から多くの不審者情報が寄せられていた。Xのコートから拳銃発射時に開いたとみられる溶融穴が見つかったことなど、いくつかの状況証拠を上がっている。それらでもって強制捜査に踏み切り、逮捕した被疑者から新たな供述や決定的な証拠を掴み、事件解決に向け一気呵成で詰めの捜査をしていくのが狙いだった。

逮捕状請求にあたっては、警視総監、公安部長、参事官、公安第一課長、理事官、管理官、係長に至るまで、あらゆる立場の人間が折々に触れ東京地検のそれぞれのカウンターパートに強制捜査の必要性を訴え続けたという。最後は東京地検が警視庁の熱意に折れた。

発生から9年経った2004年7月7日「七夕の日」に警視庁の悲願が叶う。カラっと晴れた夏の朝、警視庁詰めの公安部担当記者は大変な騒ぎになった。

右往左往する記者たち

特捜本部は元警視庁巡査長のX、教団幹部の矢野隆(仮名)、テレビ朝日への脅迫電話をかけたとみられる金子牧男(仮名)、「弾が何かおかしい」とのメモを書いた河本道夫(仮名)の4人に逮捕状を執行した。警視庁9階にある記者クラブのフロアでは、世紀の逮捕劇に遅れを取るまいと各社の記者が行ったり来たりしている。筆者も駆け出しの警視庁記者としてその喧噪の中で右往左往していた。

逮捕について会見で説明する警視庁公安一課の永井力課長(当時) 2004年7月7日
逮捕について会見で説明する警視庁公安一課の永井力課長(当時) 2004年7月7日

記者らは公安担当の先輩記者の指示に従って被疑者が引致される警察署がどこなのかと方々に散って確認作業に追われ、新米記者は警視庁本部に連行されてくるかもしれない4人を待ち受けるため、炎天下で警視庁本部庁舎の副玄関やお堀端の車両入り口に立ち続けた。

庁舎の副玄関やお堀端の車両入り口では、交通整理用のカラーコーンで仕切られた一角に各社のテレビカメラ、新聞のスチールカメラの砲列が何重にも窮屈そうに並んでいる。最前列の報道陣は地面に立っていられたが、最後列は12段もある通称「角栄脚立」と呼ばれた高楼の上に、キヤノン砲の様なテレビカメラをカメラマンが肩に担いで何時間もじっとしている。皆が額から大粒の汗をほとばしらせていた。

オウム真理教の施設にも家宅捜索が入った 東京・世田谷区
オウム真理教の施設にも家宅捜索が入った 東京・世田谷区

この日はとにかく暑かった。長官銃撃事件の特捜本部は発生からいくつもの夏を、日の目を見ずに越してきた。それを思うと桜田門に轟く蝉の声が捜査員による勝ちどきにも聞こえてくる。新米記者らは胸が高鳴る中で今か今かと世紀の被疑者を乗せた車の到着を待ちわびた。

この大騒動は西日が桜田門に射すまで続く。表だった動きがない中で、新米記者たちは副玄関とお堀の車両入り口の間を意味も無く行ったり来たりを繰り返した。そのうち日が傾きかけた頃、公安担当の先輩記者から「もうバレて(解除で)いいよ。ご苦労さん」と電話が入る。

Xらの逮捕を受けてコメントする国松元長官 2004年7月7日
Xらの逮捕を受けてコメントする国松元長官 2004年7月7日

特捜本部は逮捕した4人をマスコミの目から隠すため警視庁本部ではなく別の留置施設に入れた。4人の横顔すら垣間見ることがなかった筆者には、この「七夕の逮捕」が夏の桜田門のアスファルトに立ち上った陽炎の様に見えた。

4人の取り調べ方針

4人の調べにはそれぞれ狙いがあった。まずX元巡査長には、新しい状況証拠であるコートの溶融穴についてや、このコートを端本悟元死刑囚に貸したかについて追及した。

河本は現場に来ておらず、長官事件に絡む謀議に参加した可能性はあっても実行犯ではないため、事件について知っていることを案外話す可能性があるかもしれない。

犯行当日の矢野の目撃情報
犯行当日の矢野の目撃情報

矢野については犯行当日にダミー役として現場周辺を自転車で走るよう誰から指示されたかが争点だった。

金子については、テレビ朝日にかけた脅迫電話の件がこの時点で既に公訴時効を迎えていたが、電話をかけたことについての事実確認と目的、誰からの指示だったのかについて追及した。

Xと端本悟元死刑囚の関係

Xが実行犯とおぼしき男がホーリーネーム「ガフヴァなんとかの男」つまり端本悟に似た男だったと供述したことも焦点となる。Xと端本の関係については、端本がまだ任意聴取に応じていた2003年の暮れ頃までの聴取で、端本はXと会っていたことを明かしていた。

端本悟元死刑囚はX元巡査長と会っていた事を明かしていた
端本悟元死刑囚はX元巡査長と会っていた事を明かしていた

端本が井上の運転担当をしていた95年1月頃、「井上から南青山の教団総本部でXを紹介された」と端本は話していたのである。同じ井上の配下にいたXと端本は、現場の下見でも同行していた可能性があり、2人はよく見知った仲だったはずだ。Xが端本のことを「ガフヴァなんとかの男」と供述していること自体が不自然極まりないのである。

逮捕直後Xは取調官に「下見に行ったのは間違いないです。長官狙撃事件に利用されてしまったことについて自分に非があると認めます。最初に井上から調査活動を依頼されたとき、オウムを陥れようとする人物をオウム独自で調べているのだなと思いました。車の中で長官について聞かれたので『警察庁長官がオウムを陥れる陰謀に関わっているのかな』と思いました」と話し、あくまで下見をしたことだけを認めていた。

難航する取り調べ

4人の七夕の逮捕から第一勾留期間の10日が瞬く間に過ぎる。特捜本部の幹部は「二勾まで、もう10日間勝負するから。しっかりXに供述させる。Xの供述ががっちり固まっても裏付けが更に必要にはなってくる。仮に裏付けが追いつかなくても真実性が高いとの心象が得られれば東京地検は起訴してくれるんじゃないか」と期待感を滲ませていた。

銃撃現場での鑑識作業 1995年3月30日
銃撃現場での鑑識作業 1995年3月30日

しかし連日に及ぶ取り調べの中で、再びX供述に変化が現れ始める。事前に拳銃の試し撃ちをした話について「96年に調べ官から『撃ったのなら試射をしただろう?』と言われてやりましたと答えましたが、『何回だ?それだけか?』と詰められたので作り話をしてしまったんです」と訴え、拳銃を見せられたことはあったものの、試し撃ちの話は嘘だったと言い出した。このあたりからXの調べは雲行きが怪しくなってくる。