プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

中日ドラゴンズ一筋32年で50歳まで現役を続けた山本昌氏。鋭く落ちるスクリューボールを武器に通算219勝をあげ、最多勝3回、沢村賞1回などの数々のタイトルを獲得。最年長登板(50歳1カ月)、最年長勝利(49歳0カ月)、最年長ノーヒットノーラン(41歳1カ月)など様々な最年長記録を持つ“中年の星”に徳光和夫が切り込んだ。

【中編からの続き】

2番手・3番手にいて2桁勝つ

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1993年は山本昌氏を含めて17勝あげたピッチャーが3人いて、横浜(現・DeNA)の野村弘樹氏、中日でチームメイトの今中慎二氏と最多勝を分け合った。

徳光:
先輩の今中さんとはダブルエースって言われましたけど、ライバル心みたいなものはあったんですか。

山本:
ライバルというよりも2人で勝っていかなきゃいけない。
というか、チーム内では今中投手がエースなんですよ。

徳光:
そうだったんですか。

山本:
ダブルエースみたいな成績なんですけど、チーム内ではやっぱり今中さんがエース。今中さん本人も「自分がエースだ」と思ってやってたはずです。その後も、野口(茂樹)であったり川上憲伸であったり吉見(一起)であったりチェンであったりっていうエースがいる。そういうふうに恵まれていて、僕はあんまり矢面に立ってないんです。

徳光:
はぁ、なるほど。

山本:
いつも他にほんとのエースがいる。ただ、僕が2番手、3番手にいて、ちゃんと2桁勝つチームってやっぱり強かったなって思います。

徳光:
それはそうかもしれませんね。

山本:
はい。それにリリーフがほんと良かったです。郭源治さんから始まって宣銅烈さんがいてギャラード投手がいて岩瀬仁紀さんがいて…。あとは浅尾(拓也)投手とか。ああいうピッチャーたちがいたからこそ順調にいった。すごく恵まれてるんですよ。219勝しましたけど、ほかのチームだったら100勝くらいで終わってるかもしれない。

徳光:
そんなことはないですよ。

「10.8決戦」では4度の登板準備も…

1994年のセ・リーグは巨人と中日が激しいペナントレースを繰り広げた。最後は、同率首位のチーム同士の最終戦直接対決となり、巨人が中日を破ってリーグ制覇を成し遂げた。プロ野球史に残る伝説の「10.8決戦」だ。

徳光:
「10.8」の話を伺いたいんですが、あれは昌さんにとっては、ほんとに悔しいシーズンですよね。

山本:
そうですね。

徳光:
あの試合で投げられなかったっていうのは相当悔しかったでしょう。

山本:
僕は2日前に阪神戦で完投してるんですよ。だから、前日練習でピッチングコーチが、「明日はベンチに入んなくていいから」って言うんです。でも、「明日決めましょうよ」って言って、当日グラウンドに行ってキャッチボールをしたんです。それで「行けます」と言って、あの日はリリーフで都合4回準備しましたから。

徳光:
そうなんですか。

山本:
2回目の準備のとき、「山、4回から行くよ」って言われて肩を作ってたんです。そこに高木(守道)監督が来て、「まだいい。もっと大事なとこがあるかもしれないから、今は行かないでいい」って。わざわざ直々に来たんですよ。それで他のピッチャーが投げたんですけど、そこで松井君がホームランを打った。

徳光:
そうなんだ。

山本:
でも、「10.8」っていう試合は10試合あったら、恐らく8試合はドラゴンズが勝ってます。

徳光:
そうですか。

山本:
はい。絶対そうです。先発の今中投手はナゴヤ球場で巨人に連勝中だったんですよね。向こうは2日前に秦(慎司)さんに神宮でサヨナラホームラン打たれた槙原(寛己)さんが先発。「これはいただきだ」と思うじゃないですか。
でも、今、いろんな方から「10.8」の証言みたいな話を聞くと、「やっぱりジャイアンツ、長嶋さんってすごいな」って。試合前のミーティングで「勝つ」っていう言葉を大きな声で3回…。

徳光:
「勝つ!勝つ!勝つ!」って。

山本:
「勝つ!」って言って球場に入った。こっちは普通通り。野球ってほんとは普通通りにやった方が強いはずなんですけどね。

徳光:
そうですよね。

山本:
ただ、高木さんはお亡くなりになりましたけど、数年前に僕と話したときに、「ヤマ、あのとき俺もいろんな手段を使って試合した方が良かったのかな」って言ったんですよね。

徳光:
昌さんに話したってことは、2日前に登板した山本昌を使えば良かったんじゃないかなってことですかね。

山本:
それもあると思います。高木さんも多分後悔されてたんだろうな。でも、あのときは普通にやって正解だったと、僕は思います。

徳光:
巨人の三本柱、同世代の3投手はどうでしたか。ライバル心みたいなものはありましたか。

山本:
あの3人とは必ず当たるんですよ。成績でいうと、桑田(真澄)さんには結構勝ち越してます。槙原さんとは五分、斎藤(雅樹)さんには大きく負け越してます。僕、セ・リーグ5球団でジャイアンツにだけ負け越してるんです、1個。

徳光:
そうなんですか。

山本:
だから、ジャイアンツだけ1つ負け越したのは、斎藤さんのせいなんですよ(笑)。

名トレーナーと出会い3度目の最多勝

1993~94年に2年連続で最多勝を獲得した山本昌氏だが、翌95年はわずか2勝に終わり、そのシーズンオフに左膝を手術する。

山本:
膝の靱帯の中に入ってた骨がガツッと動いちゃって、それがずっと熱を持ってて、それで走れなかった。

徳光:
それは30歳くらいのときですよね。ということは、でもそこからあと20年も投げられたわけですよね。

山本:
ここがまた大きかったですね。僕は悪いこともいい方に変える何かがあるんだと思います。このとき出会ったのが鳥取のワールドウィングの小山(裕史)先生なんですよ。

小山裕史氏とは元ボディビルダーのフィットネスコーチで神経筋生理学者。山本昌氏だけでなく、イチロー氏、岩瀬仁紀氏などの野球選手をはじめ、ゴルフの青木功氏、テニスの杉山愛氏など、多くのトップアスリートを指導した。

山本:
野球をしたこともないボディビルダーなんですね。その人が、僕らプロが見てもすげぇなっていう動きを研究する。それこそイチロー君とか岩瀬とかもずっと通ってた。
あの方は動きを見るプロなんで、「どういう動きをしたらこういうボールになりますか」とか聞いて、2人でディスカッションしながら練習しました。連続最多勝のピッチャーが、「先生、一緒にフォームを作ってください」って、野球したことない人に頼んだんですから。

小山氏の指導を受けて山本昌氏は見事に復活。1997年には18勝7敗、防御率2.92、159奪三振の成績で、3度目の最多勝と初の最多奪三振の二冠に輝いた。

フォーム改造の原点は趣味のラジコン!?

多くの趣味を持つことで知られる山本昌氏だが、なかでもラジコンは全日本選手権で4位入賞を果たしたこともあるほどの腕前だ。このラジコンと出会ったのも、この頃だったという。

山本:
春先から靱帯の中で骨が動いちゃって、2登板くらいして、すぐ二軍に行ったんですよ。毎日午前10時くらいに暇になる。あまりにも暇だと。そしたら、昔の寮の近くにラジコンサーキットがあるって聞いてね。今ならお金があるから、ちょっと行って買ってみようかな…みたいな感じで行ったら大歓迎ですよ。僕がぶつけて壊しても、みんなで直してくれるんですよ。とにかく僕はただ運転だけしてりゃいい。
でも、そのときに気付いたことがあったんです。週末になると大学生とか高校生のうまい人が来るんですよ。その子ら、あんまり走んないで、その日の気温とかノートばっかつけてるんです。それで走るでしょ。そしたら、今度もう一回バラバラにして、またセットを替えて組んで走ってるんです。でも、帰りには必ずタイムアップしてる。

徳光:
うん、うん。

山本:
あのときに、「自分の今のフォームがベストじゃないかも」と思ったんですよ。

徳光:
なるほど。そのラジコンを見てて。

山本:
そうなんです。だって、毎回セットを替えてるのに速いんです。しかも速くなっていくんです。そのときに出会ったのが小山さんなんです。
だから、野球はアマチュアのボディビルダーの人に「フォーム、こうだよ」って言われても、素直に受け入れられた。変えたかったから。

徳光:
そうなんですか。つながりました。

山本:
僕、ラジコンを運転してるときとセットポジションが同じと言われてるんです。

徳光:
ほんとですか。

左・ラジコンの運転 右・セットポジション
左・ラジコンの運転 右・セットポジション

山本:
ほんとです。全く同じです。ラジコンを運転する姿勢は、そのままホームに投げられそうな感じ。肘が楽な位置だから、僕はずっとこれでやってる。ラジコンはいろんな姿勢の人がいますけど、僕はこのセットの位置が楽なんですよね。

徳光:
そんなところに共通点があったんだ。

FA移籍報道に星野監督が激怒!?

山本昌氏は1997年にFA権を獲得したが、引退まで権利を行使することはなく、32年間中日のユニフォームを着続けた。

徳光:
FA資格があったにもかかわらず、32年間チームを変えなかったわけですよね。

山本:
そうですね。まあ、出る気がなかったんですよ。でも、FA権を獲得した年はシーズン終盤から報道陣がすごくて…。名古屋駅のキヨスクで、新聞の見出しに「山本昌、巨人何億」って書いてあったんです。えっと思って、その新聞を買って読んでたんです。そしたら、すぐ横に星野さんが立ってたんですよ。「うわっ、すみません!」て言って、すぐごみ箱に捨てた(笑)。

徳光:
(笑)。それ、横にいた星野さんは何かおっしゃったんですか。

山本:
いや、何も言わない。ある日、僕の記事が中日スポーツの一面だったんですけど、ゴルフ帰りの星野仙一さんの談話が書いてあったんですよ。「ワシはそういう教育しとらん」。星野さんが言ったのはそれだけです。僕思ったんです、怒ってるって(笑)。

徳光:
なるほど(笑)。

山本:
これは早めに怒りを静めないと大変なことになりかねないから、すぐに自分から球団に「すぐ行きます」って電話したんですよ。その後、契約したんですけど。

徳光:
それで収まったわけだ。

数多くの史上最年長記録

山本昌氏は最年長試合出場(50歳1カ月)、最年長勝利(49歳0カ月)、最年長完封勝利(45歳0カ月)、最年長ノーヒットノーラン(41歳1カ月)など様々な最年長記録を持っている。ノーヒットノーランを達成したのは2006年9月16日の阪神戦。シーズン終盤、優勝を争う中での直接対決で、許した走者はエラーによる1人だけの「準完全試合」だった。

徳光:
あのノーヒットノーランはすごかったな。これ、ご自分の中ではどういう歴史ですか。

山本:
あの年のノーヒットノーランと次の阪神戦。天王山の2つの勝ちがチームに一番貢献できたというふうに思っているので、「僕にとってどれが印象ある?」って聞かれたら、やっぱりその2つの試合ですね。

山本昌氏が「次の阪神戦」と語った試合は、9月30日の甲子園での一戦のことだ。9連勝で猛追してきた阪神を相手に、山本昌氏が8回1失点の好投で勝利。阪神の勢いを止めた中日は、その後、2年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。

「自分より幸せな野球選手はいない」

山本昌氏が引退したのは50歳のとき。最後の登板は2015年10月7日の広島戦だった。シーズン最終戦に打者1人限定で先発登板し、先頭打者をセカンドゴロに打ち取って、大粒の涙を流しながらマウンドを降りた。

徳光:
通算32年に及ぶ現役生活に別れを告げるときは、どういう決心で、どういうお気持ちだったんですかね。

山本:
40歳を越えてから毎年、「今年で最後かも」と思って頑張ってたので、それが10回続いちゃっただけだったんですよ。10年間毎年、「今年で終わりだな、頑張ろう」の繰り返しだったんです。
もう1個勝ったら世界記録を作れるとはいえ、50歳の年で0勝で終わってしまったピッチャーがチームに要るだろうかと。当然寂しさとか悔しさとかはあるんですけど、「自分より幸せな野球選手はいないだろう」って思って引退できた。ほんとに幸せだったなと思います。
何て言うんですかね、僕らが野球をやってたときが、なんか一番熱い時代だったって感じてるんですよ。みんな子供の頃はとりあえず野球をやってた。そういう中でそこまでやったって。今はスポーツの多様化で、いろいろありますからね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/18より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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