プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を徳光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

横浜・中日で27年、歴代最多の3021試合に出場、捕手としては3人目の2000本安打を達成した谷繁元信氏。中日では選手兼任監督も務めた“レジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。

徳光:
今回のゲストは谷繁元信さん(54)です。よろしくどうぞお願いします。

谷繁:
よろしくお願いします。

徳光:
実は谷繁さんのことをスタッフと共に勉強しました。とてつもない選手ですね、あなたは。

谷繁:
そうですか。

谷繁元信さん(54)
谷繁元信さん(54)
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徳光:
日本プロ野球史上最多の通算3021試合に出場。これもありますよね。キャッチャーとして、出場試合数が2963。これもうメジャーリーグでもいない。

谷繁:
そうですね。

徳光:
横浜と中日で積み重ねた安打数がなんと2108本と。兼任監督も務めた。そんな人だと思わずに付き合ってた。

広島の山奥育ちの少年時代「野球には自信があった」

徳光:
広島の県境みたいなところだったんですか?

谷繁:
そうです。岡山県と鳥取県と島根県の本当に県境(広島県比婆郡東城町(現庄原市)生まれ)。福山の上の方なんですよ。夏は川でアユをとったりですね。そういう自然の中で育ったんで。

徳光:
でもね、われわれジャイアンツファンとしましてはですね…。

谷繁:
いや僕もジャイアンツファンなんですよ。子どものころから。写真でしか僕はその記憶はないんですけど、写真で見たらジャイアンツのユニホーム着てるんですよ。

徳光:
ああそうですか。野球はそもそも少年野球から始めたわけですか?

谷繁:
そうです。小学校2年生の時に地元の野球チームに入ってですね。もう1チームしかなかったんで、軟式しかなくてですね。

徳光:
軟式でしょうね、当然。

谷繁:
硬式は周りにはなかったんで、近いところが。

徳光:
野球面白いなと思いました?

谷繁:
そうですね。なんかもうそのころから自信が、野球に関しては自信があったというか。

徳光:
なんか小学校6年生のころには、もう広島県内の野球関係者の中でも名前が知られていたって。

谷繁:
なんかみたいですね。でもシニアチームから声がかかってとかそういうのはまったくないんで。もう地元の中学校の中学野球部ですよ。

徳光:
最初からキャッチャーやってらしたんですか?

谷繁:
いいえ、僕はピッチャーとかサードとかやってました。

徳光:
中学もピッチャー。

谷繁:
そうです。

徳光:
資料によりますと、中学で野球部に入ったんだけれども、一度なんか野球部退部されて…。

谷繁:
中2の9月ぐらいですね。ちょっと問題を起こしてですね。

徳光:
ご本人が?

谷繁:
はい。ちょっとけんかして。刑事ざたになるような問題じゃないんですけど、父親にちょっと怒られて。

で、「そういうことやってるんだったらもう野球辞めろ」って。で、「分かった」って言って辞めてたんですよ。

5カ月ぐらいしてる時に小学校のチームの代表っていう方がいるんですね。で、1回呼ばれて、「お前から野球を取ったら何があるんだ」って言われて。
「一緒に父親のところに行ってやるから頭下げろ」って言われて。父親のところに行って「もう1回野球やらせてください」って言って。

だから今考えると、その方がいなかったら、ここにはいないかもしれないですね。

徳光:
必ずそういう人いるんだね。

広島商・広陵を避けて結果…江の川高校へ

徳光:
高校どうするのかっていう話になった時に、広島の強豪校からの誘いというのは…。

谷繁:
あったんですよ。僕のところに来たのは広島商業、広陵、広島工業、この3つで、その中でどうするかっていう話になって。
広島商業は、まず最初に僕嫌だったんですよ。

徳光:
第一候補でしょうが。

谷繁:
嫌だった理由が練習の方法、当時うわさがあるわけですよ。

徳光:
中学生に伝わってくるわけ?

谷繁:
伝わってくるんです。刀の上を歩かなきゃ、立たなきゃいけないとか。

徳光:
本当にですか?

谷繁:
いや、あったんですよ。

徳光:
刀の上?

谷繁:
分かんないですよ、本当にやったかどうかは。精神統一でそれをやらなきゃいけないみたいな。そんなのできるわけないでしょう、まだ中学生ですから。本当にそれで僕嫌だったんですよ、広島商業が。

徳光:
へー。そのうわさで。

谷繁:
はい、で、次に消したのは広陵なんですよ。

徳光:
なぜですか?

谷繁:
広陵は、僕の地元の幼なじみのもう1人の野球やってたのが行くっていうふうになってたんですよね。

徳光:
東城町の。

谷繁:
で、一緒に行きたくないなと思ったんですよ、なぜか。なんか違うところに自分は行きたいなっていう。

残りはということで、その当時の広島工業って2期連続夏の甲子園出てるんですよ。一番強かったんですよ、そのころ。
そこからやっぱり話が来てるんで、「じゃあもう広島工業に行きたいです」っていう。

徳光:
あれ?だけど広島工業にならないですよね。

谷繁:
そうなんですよ。広島工業って公立なんで、ちゃんと入試を、ちゃんと点数取らなきゃいけない。

徳光:
そりゃそうですよね。

谷繁:
そうですよね。でも僕、中学生の僕は「来てくれ」って言われたわけだから、もう(点数に関係なく)取ってくれるもんだっていう…。

徳光:
なるほど。

谷繁:
ほとんど勉強もせず。で、まあ落ちますよね。

徳光:
そうか、公立だからダメなんだ。

谷繁:
行くところはないんですよ、その時点で。

徳光:
そうでしょうね。

谷繁:
で、どうしようというふうに思っていたら、その広島工業の監督が江の川(現石見智翠館)の監督と知り合い、知ってたみたいで。

江の川の監督に「こういう選手がいるんだけど、お前のところで取ってくれないか」と。
で、2次募集っていうのがあったんですよ、江の川の方は。そこで僕が行って、入ったんです。

徳光:
江の川といえば、島根県。
じゃあ隣県に行ったわけですか。
厳しいところは嫌だ、練習とかっておっしゃってましたけど、江の川は?

谷繁:
めちゃくちゃ厳しかったです。

徳光:
あ、そうなんですか。

谷繁:
やばいぐらい厳しかった。1年生の時って、水も飲ませてもらえなかったんですね、僕ら。正直ほぼ隠れて飲まないといけなかったんで。その練習場のレフト側はまあまあ高いネットがあるんですけど、その左中間の奥に女子寮があったんですね。

徳光:
高校の、江の川の。

谷繁:
そうです。で、その横は空き地でちょっと草むらになってるんですよ。朝のグランド整備とかボール磨きの時に草むらに(水を)隠しておくんですよ。
で、バカーンと打ったら、もう「俺が取りに行く」って探しに行くんですよ、ボールを。
で、草むらに隠れて水を飲んで帰ってくるっていう。

徳光:
そのことが起因して(寮から)脱走したっていう記録がありましたけど。

谷繁:
脱走しようとしたんですよ。「もう我慢できない」って言って、何人かで。
で、1つの部屋に集まって、次の日の朝、朝イチ、朝方ですね、出るっていう。
で、夜寝たんですよ。朝起きたら僕ひとりしかいなくて。置いていかれたんですよ。

徳光:
クーデターの仲間が入らなかった。

谷繁:
置いていかれたんですよ。しょうがないから自分の部屋に帰って寝てましたけど。あとあと聞いたんですよ。「なんで置いていったんだ」って言ったら、「いや、お前は絶対にやった方がいいと思った。野球を続けた方がいいって思った」。

徳光:
「野球でお前は成功すると」。
ピッチャーだったんですか、高校は?

谷繁:
入った時はピッチャーやらせてもらってました。でも1カ月ですよ。1カ月後の5月連休に最後の練習試合で投げてめった打ちくらったんですよ。
で、帰ってから監督から「キャッチャーやれ」って言われて。で、キャッチャーをやり始めたんです。そこがスタートですね。

徳光:
ピッチャーからキャッチャーって、高校生の時って、「ええ、キャッチャー?」って思いはなかったんですか?

谷繁:
そういうことを言える雰囲気じゃないんですよ。分かるでしょ。

徳光:
これまでの話で分かりますね。
内心はどう思ったんですか?

谷繁:
内心も、でも嫌じゃなかったんですよ、キャッチャーが。ピッチャーやってましたから。
バッターを抑えるっていう、どうやって抑えようかとか、そういうのを考えるのが嫌いじゃなかったんで、だからそれが逆になっただけなんで。
だからキャッチャーとして、バッターをどう抑えていけばいいのかなっていうのが、たぶん自分の中で(考えるのが)面白かったなと思うんですよ。

徳光:
なるほど。
それでいよいよデビューですよね。1年生の夏の島根大会で、1年生で5番を打って準決勝までの4試合で13打数6安打5打点、打率4割6分2厘。
で、ホームランも1本。

谷繁:
これはね、自分の力を出したいっていうだけじゃなくて、やっぱり先輩からのプレッシャー、「これ打たなきゃ」みたいな。

徳光:
はぁ。打たなければどうなるんですか?

谷繁:
どうにかなるかもしれないんで。

3年夏の県大会で7本塁打 驚異の6割6分7厘

徳光:
2年生の夏の県大会は5試合で22打数12安打、打率が5割4分5厘。この年に甲子園出場ということで。

谷繁:
やっぱり目標は甲子園っていうのがあったんで、もう本当にうれしかったですね。うれしかったですし、よし、もうこれ(甲子園でも)やれるっていう自信がものすごいあったんですよ、自分の中で甲子園行っても。もう早く甲子園行って活躍したいなと思いながら。

徳光:
その自信はどうでした?甲子園行ってみて。

谷繁:
打ちのめされましたよ。

徳光:
どこに?

谷繁:
Y高です。

徳光:
横浜商業。

谷繁:
古沢(直樹)っていうピッチャーがいたんですよ。僕と同級生。

徳光:
日本石油カルテックスに行った。

谷繁:
そうです、そうです。2年生エースで、4打数0安打、2三振、完封負けです。もう監督が怒りまくって。そこからまた鬼のような練習が始まりましたよ。

徳光:
3年の夏はとうとう島根県大会。もう今やこれ伝説になっておりますけども、すごいですね、5試合で7ホームラン。
で、3回戦で3打席連続ホームランっていう。18打数12安打14打点、打率6割6分7厘。

谷繁:
大したもんですね(笑)。

徳光:
さすがに3年生のこの県大会で、もう甲子園でも大丈夫って自信は?

谷繁:
ありました。確実に自分のレベルが上がっているのが分かっていたので、まぁ戦えるなとは思っていました。

徳光:
これってベスト8?

谷繁:
ベスト8ですね。

徳光:
福岡第一に負けるじゃないですか。

谷繁:
前田幸長に。いいピッチャーでしたね。

徳光:
前田幸長から打ったんでしょう?

谷繁:
1本打ちました。インサイドのまっすぐを左中間に2ベース打ったんですけど、2打席目からカーブ攻めに遭いましたよ。前田のカーブがよかったです、やっぱり。

徳光:
やっぱそうですか。前田幸長を打っただけではなくてですね、やっぱりベスト8まで行ったってことは、そのあたりから、もしかしたらプロでやっていけるかなみたいな感じはあったんですかね。

谷繁:
そうですね。でも3年生になったあたりから、どういう形になるか分からないですけど、プロには行けるんじゃないかなと思いながら。

ドラフト会議1位 もともとは野村謙二郎と逆だった?

徳光:
実際にプロからの声は何球団ぐらいあったんですかね?

谷繁:
最終的には3つですね。カープ、ジャイアンツ、大洋ですね。

徳光:
地元のカープは相当積極的でした?

谷繁:
でしたね、やっぱり。

徳光:
なぜカープじゃなかったんですかね?

谷繁:
最終的には野村謙二郎さんがドラフト1位で行ったんですけど。大下(剛史)さんが広島のヘッドコーチだったんですよ。大下さんが(野村謙二郎さんと同じ)駒澤大じゃないですか。そこのあれで、僕じゃなくて最終、最後の最後に謙二郎さんになったらしいです。

徳光:
野村さんにも前に出ていただいた時に、野村さんは広島一辺倒ではなかったみたいなところがありましたけど、大下さんから「広島へ行きたい」と言えと。

野村謙二郎(2025年6月3日放送):
広島は、達川(光男)さんの後釜で谷繁(元信)くんを取るっていうのは、ほぼ決まってたらしいですよ。
野村を取らないんだったら、大下さんが「ヘッドコーチ降りる」って言ったらしくて、そこで変わったらしいです。

徳光:
広島行ってたら、また違った?

谷繁:
スカウトの方に達川さんのミットをいただいたりしましたし。

徳光:
そうですか。

谷繁:
でも一番親身になって僕を取りに来てくれてたのが、やっぱり大洋だったんですよ。ちょうど大洋が世代交代、何年後に強くなるチームを作るっていうスカウティングをしてた時期なんですよ。

だから僕の1個前が盛田幸妃・野村弘(弘樹)、僕、次の年が鈴木尚典であったり、三浦大輔であったり、このへんが入ってくるんですよ。

徳光:
まさにそうですね。チーム作りとしましては5カ年計画みたいなのがあったよね。

谷繁:
1988年の大洋のドラフト指名選手はこのほかにも。当時は育成じゃなくて、ドラフト外っていう、石井卓郎がいて。

徳光:
石井卓郎がドラフト外?同じ時期に?

谷繁:
同じドラフトです。

【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 2025年6月24日放送より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
https://www.bsfuji.tv/legendo/

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