プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

中日ドラゴンズ一筋32年で50歳まで現役を続けた山本昌氏。鋭く落ちるスクリューボールを武器に通算219勝をあげ、最多勝3回、沢村賞1回などの数々のタイトルを獲得。最年長登板(50歳1カ月)、最年長勝利(49歳0カ月)、最年長ノーヒットノーラン(41歳1カ月)など様々な最年長記録を持つ“中年の星”に徳光和夫が切り込んだ。

登録名「山本昌」の理由

徳光:
現役生活32年っていうのは、すごいですよね。

山本:
そこまでやれるとは全然思ってなかったわけで、気づいたら50までやってました。

徳光:
32年ってことは、相当年配の方とも、かなり若い人たちとも対戦してるわけですよね。一番のベテランって誰ですかね。

山本:
一番は衣笠(祥雄)さんと山本浩二さんじゃないですかね。一番新しいのは多分、鈴木誠也。

徳光:
そう考えるとすごく長い野球人生ですよね。1人で2人分くらい。

山本:
VHS・8ミリビデオの時代から4Kまでいってるんで。だって、中学のときの卒業アルバムは白黒ですからね(笑)。

徳光:
ところで昌さん、本名は山本昌広さんですよね。でも、山本さんでもなく昌広さんでもなく、今でもずっと山本昌さん。これはどうしてなんですか。

山本:
僕が、最多勝とか取ってる頃なんですけど、チームメイトに山本保司という選手がいたんです。だから、場内アナウンスは当然「山本昌広」。フルネームで呼んでくれるわけですよ。

徳光:
はい、そうですね。

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山本:
あるとき、その山本保司君がロッテにトレードになったんですね。それで、「山本」は僕1人になったんです。次の年のオープン戦で「ピッチャー・山本」ってアナウンスがあったときに、スタンドから聞こえたのが「山本って誰?」って声。ちょっとしてから、「あぁ、山本昌か」って言ったんですよ。ちょっと待ってくれと。僕、一応、最多勝投手なんですけど。

徳光:
(笑)。

山本:
だから球団に相談したら、すぐ「山本昌」に。

徳光:
なるほど。「山本昌」の謎が解けました。

平成時代の最多勝利…214勝

通算219勝をあげた山本昌氏だが、このうち214勝は平成時代にあげている。平成時代に限った通算勝利数では2位の西口文也氏(182勝)、3位の工藤公康氏(177勝)に大きく水をあけての1位だ。

山本:
あ、そうなんですか。すごいですね。

徳光:
断トツです。2位の西口さんが182勝。

山本:
西口さん、工藤さんのお2人もほんとにすごくて…。

徳光:
でも、昌さん、すごいなぁ。

山本:
光栄です。

徳光:
特に苦手だったっていうバッターは誰でしたか。

山本:
打席に立たれて一番嫌だったのは、清原(和博)君です。

山本昌氏と清原氏との通算対戦成績は76打数26安打、打率3割4分2厘、7本塁打、18奪三振と、かなり打ち込まれている。

山本:
調子が悪いときの清原君は真ん中を投げても空振りしてくれるんですけど、調子のいいときの清原君って、アウトローのショートバウンドしそうなボールでも、ホームランを打つんですよ。三振18個取ってるんですけど、調子が悪いときは真ん中でも三振なんですよ。当たんないんだもん。でも、調子いいときはどこに投げてもダメなの。

徳光:
へぇ。

毎日牛乳10本飲んで大きくなった!?

徳光:
子供の頃から体は大きかったんですか。

山本:
僕の家は3人兄弟なんですけど、牛乳瓶を毎日12本配達してもらってたんです。そのうち10本を僕が飲んでた。

徳光:
えーっ、そうですか(笑)。

山本:
牛乳のおかげで大きくなったのか分かりませんけど、僕は牛乳が大好きで。小学校のとき牛乳が飲めない子とかもいるじゃないですか。そういう子たちが、僕の机の上に置いてくんですよ。だから、給食のとき、いつも5~6本あるの。ただね、コーヒー牛乳の日は誰もくんないんだよね(笑)。

徳光:
(笑)。
子供の頃、まねしたプロ野球選手って誰かいるんですか。

山本:
僕のピッチングフォームって、もともとは堀内(恒夫)さんなんですよ。僕はピッチャーで巨人ファンでしたから、当時、ジャイアンツのエースだった堀内さんをまねしてました。堀内さんっぽいフォームで唯一残ったのが、投げるときにグローブを持っている手を内側に囲むところです。

徳光:
あぁ。堀内さん、そうですね。

山本:
はい。左手を囲むじゃないですか。

徳光:
なるほど。そこに残ってるんだ。

将来の夢は「学校の先生」

徳光:
野球は(神奈川県)茅ケ崎市の小学校で始めたんですかね。

山本:
本格的にやったのは茅ヶ崎のチームなんですけど、たまたま誘われて入ったチームが結構な強豪チームで、僕は小学校時代は公式戦で投げたことがなかったんじゃないかな。練習試合ではあったんですけど。
実は僕ね、中学3年生の6月には、「野球は中学で辞めます」って担任の先生に言ってるんですよ。

徳光:
へぇ。それはまたどうして。

山本:
学校の先生になりたかったんです。進路指導みたいなのがあって、「お前、どうしたい?」って聞かれて、「ちゃんと勉強して大学に行って、教職取って、僕は将来、学校の先生になりたいです」という話をしてたんです。
中2の春から毎晩4kmのジョギングを欠かさずにやってたんですけど、それは高校で野球するためじゃなくて、なんとか試合に出たいと思ってやってたんです。そしたら、最後の最後にチャンスが来て、そこでちょっといいピッチングしたら、夏の大会が終わっていろんな高校から話が来たんです。

「打倒Y校」ダンベルを現役引退まで

徳光:
そのなかで日大藤沢を選んだ理由は。

山本:
中学校のときの顧問の先生から、「将来、教師になりたいなら、大学の付属校からもスカウトの話がある」と言われたんです。ここだったらそのまま大学に行って頑張れば教職が取れる。当時は、まさかプロになれると思ってなかったですからね。

当時の日大藤沢を率いていたのは香椎瑞穂(かしい・みずほ)氏。1948年から1965年まで日本大学で監督を務め東都リーグで12回の優勝、1961年には初の大学日本一に導いた名将だ。ヤンキースの名監督になぞらえ“東都のステンゲル”と呼ばれた。

山本:
あとで聞いた話なんですけどね、あれだけプロ野球選手をたくさん輩出されてる監督が、僕のことをパッとながめてね、「この子は将来、上でする子だから、あんまりゴチャゴチャ言わないようにしよう。のびのび育ててあげよう」って思ったそうです。

徳光:
へぇ。
1年生からもうエースだったんですか。

山本:
いや、違います、違います。
1つ上に荒井直樹さんっていって、今、前橋育英高校の監督をされてる人がいたんです。10年くらい前に夏の甲子園で全国制覇した人。その方が1つ上にいてエースでした。

徳光:
日大藤沢はかなりの強豪でしたよね。

山本:
まあまあですかね。ただ、神奈川には、横浜であったりY高(横浜商)であったり東海大相模であったりと、いろんな強豪校がありますからね。

徳光:
甲子園にはかなり近づいたんですか。

山本:
いえ、全然遠かったですね。一生懸命頑張りましたけどね。
あの頃はY校が強かった。中日で同期になった三浦(将明)というピッチャーがいてね。あのときの三浦投手の横浜商業って言ったら、春の選抜準優勝、夏も準優勝、国体も準優勝ですから、やっぱり敵わなかったですね。

徳光:
なるほどね。

山本:
2年の春の県大会の準々決勝で当たったんですよ。三浦君は投げてないですけど、それでもめった打ちを食らいましたね。荒井さんが先発で僕がリリーフだったんですけど、2人で14点取られたんですよ。
その日の晩、スポーツショップに行って、2㎏のダンベルを2個、1200円で買ったんです。それからは夜寝る前に5分、その2個のダンベルで筋トレ。あの1200円の鉄アレイは引退する前日まで毎晩やってました。

徳光:
へぇ。

山本:
必ずそれで5分間トレーニングしてから寝る。たまに酔っ払って帰ると、やったかどうかは覚えてないんですけど、朝起きたらちゃんと手には持ってるんですよ。

徳光:
そうなんだ(笑)。

“代役”の神奈川選抜で好投しプロが注目

徳光:
でも、プロのスカウトが来たわけでしょ。

山本:
実は高校3年生の最後の夏に法政二高に負けるんですけど、それまでプロのスカウトはあんまり来てなかったんですよ。だから、おとなしく大学進学が決まってたんです。
そこで、ちょっと奇跡的なことがあったんですね。韓国高校選抜が関東に遠征してきて親善試合をやるっていうことで、神奈川選抜が作られたんです。団結式には三浦君も来てたんですけど、三浦君は日本選抜に入ったんです。それで、来られなくなったってことで、僕が繰り上がりのエースになって、社会人のクラブチームと練習試合をしたんですよ。僕が先発したんですけど、そこで社会人のクラブチームに勝っちゃって…。

徳光:
高校生が。へぇ。

山本:
僕は全然知らなかったんですけど、その頃からスカウトの方が学校に来始めたんです。
韓国選抜も非常に強いチームで、神奈川選抜との試合でエースが投げたんですよ。そこにも勝って、それで、スカウトの方といろいろな話になったみたいで…。
ほんとだったら、日本大学に行って社会科の先生になる予定だったんですけど。

徳光:
ドラフト指名はいつ知ったんですか。

山本:
あのときの先生には申し訳ないんですけど、授業中に制服の内ポケットにラジオを入れて、授業聞いてるふりをしながら、右手を耳にあててイヤホンでドラフト会議を聞いてたんです。「おぉ、あれがここか」と12球団の表をつくってね。

徳光:
それ、高校生がやってたの(笑)。

山本:
ええ。それが終わって午後になったら教頭先生が教室に来られて、「山本君、ちょっと校長室に来てください」って呼ばれたんです。「えっ、なんかやらかしたかな」と思って…。

徳光:
こっそりドラフトを聞いてたのがバレたのか…なんてね(笑)。

山本:
それで、校長室に入っていったら、「中日ドラゴンズがドラフト5位で君を指名したよ」って。

徳光:
ほぉ!

山本:
それは僕ですよ、ほんと「ほぉ!」でしたよ。

徳光:
(笑)。

山本:
「えっ。どういうことですか」ですよ。「いや、無理、無理、無理…。小・中補欠で神奈川ベスト8じゃ無理だって」と。「だったら、大学に推薦で入れるから、大学に行って教職取ってだよね」みたいな話をして帰ったんです。
家に帰ると、なんか知らんけど親父が会社を早退して帰ってきてたんですよ。うちの親父、昔からドラゴンズファンなんです。

徳光:
そうなんですか。

山本:
だから、中日から指名って聞いたときにはびっくりもしたんですけど、「親父、うれしいだろうな」っていうのが、すごくあって…。それで、どうしようかですよ。

徳光:
あぁ、なるほど。

山本:
多分ほかの球団だったら行ってなかったと思うんです。

徳光:
そうなんですね。

山本:
だって、大学に進めるし…。父は行ってほしそうだったんですが、「行け」とは言わなかったですね。だから、僕はずっと「どうしよう、どうしよう」ってなってたんですけど、香椎監督が、「お前ならプロでやっていける」って言ってくれたんです。あれでふんぎりがついたんですよ。
あとで聞いた話なんですけど、「俺はスカウトから名刺を11枚いただいた」と。

徳光:
へぇ。そんなに来てたんじゃないですか。

山本:
らしいんですよ。だけど、僕の好きだったジャイアンツは来なかったみたいです。ジャイアンツ以外の11球団(笑)。ジャイアンツのスカウトだけ来なかったそうです。

徳光:
これはまずいよ(笑)。

「勝ち星ゼロ」でクビ寸前!?

徳光:
プロに入ってみてどういう感じでしたか。まず、先輩たちのスピードに驚くんですかね。

山本:
キャンプが一二軍合同だったんですよ。そこで小松辰雄さん、牛島和彦さん、鈴木孝政さん、郭源治さんの4人が投げ始めたんです

徳光:
うわぁ!

山本:
「これはひどい」と思いました。もう心の底から「やっぱ大学だったなぁ」って。

徳光:
その4人は12球団の中でも飛びぬけて速いほうでしたからね。

山本昌氏はプロ1~2年目は登板がなく、初登板は入団3年目の10月、ヤクルト戦だった。

山本:
消化試合でしたね。今はクライマックスシリーズがあるので、消化試合ってあんまりないんですけども、当時は消化試合が多くて2番手で出番が来たんですよ。でも、すぐ広澤(克実)さんに3ランホームランを打たれたんです。それで宿舎に帰ったら、「山本、もう名古屋に帰っていいよ」。横浜スタジアムであと残り2試合あったんですけどね。自分で鞄を持ってその日の朝に当日入りしたんですけど、1日で名古屋に帰っていったっていうのがデビュー戦でした。

山本昌氏は、4年目は開幕を一軍で迎えたものの、4月に肘を骨折し3試合出場にとどまる。結局、この年も勝ち星をあげることはできなかった。そして、この1987年のオフに星野仙一氏が中日の監督に就任する。

山本:
秋の浜松のキャンプで、ブルペンで投げてたら、星野さんが後ろに来て、「おい、そこの34番、もっと全力でピッて投げろ」って言われて、「これが全力です」って答えたのを覚えてます。

徳光:
(笑)。

山本:
おそらく相当がっかりされたんだろうな。背は高いし左で34番をつけてましたからね。(長身左腕・背番号「34」は400勝投手・金田正一氏と同じ)

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/18より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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