プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を徳光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
横浜・中日で27年、歴代最多の3021試合に出場、捕手としては3人目の2000本安打を達成した谷繁元信氏。中日では選手兼任監督も務めた“レジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
横浜38年ぶりの優勝の瞬間 最後の打者・新庄に…
徳光:
話の方は、やっぱり1997年に終盤まで優勝争いをして、最終的にはゲーム差が開いちゃいましたけども、あの悔しいシーズンっていうのは忘れられないんじゃないですか?

谷繁:
石井一久にノーヒットノーランやられて、あそこの勝負のヤクルト3連戦で3連敗したっていうのは、やっぱり相当みんなちょっと沈んで落ち込みましたけど。でもやっと戦えるチームになって、戦えるチームから今度はもしかしたら勝てるかもしれないっていう。
徳光:
で、98年見事にですね。
谷繁:
その前にですね、僕97年あれなんですよ、FA(移籍の話)があったんですよ。ジャイアンツから声かかったんですよ。
徳光:
ミスター欲しがってましたね、谷繁さんね。ぐらつかなかったんですか?
谷繁:
ぐらつきましたよ、一瞬。金額聞いた時。
徳光:
ああそうですか。
谷繁:
今だから言えますけど、倍ぐらいでしたよ、ベイスターズの。
徳光:
よく残りましたね。

谷繁:
それがやっぱり97年なんですよ。もし次の年とか、その先も勝てる見込みがなかったら、もしかしたら変わってたかもしれないです。苦しかったチームがやっと勝てる、戦えるチームになって、もう優勝できそうだって僕は思ったんで、「残ります」って言ったんですよ。
徳光:
で、見事98年ですよ。これは38年ぶりでしたかね?
谷繁:
そんなこと言われても、一切わからないですからね。38年前のことを言われたところで。

徳光:
そうですよね。
甲子園で優勝を決めた時にですね、最後のバッターだった新庄(剛志)に、「新庄もういいだろ…優勝させてくれ」って言ったのは、あれは本当なんですか?
谷繁:
本当だと思います。言ったと思います。
徳光:
新庄はなんて言いましたかね?

谷繁:
何にも言ってないんじゃないですか、たぶん。何にも言わずに、三振したんじゃないですか。
徳光:
何か忘れ得ない、ひとシーン。

谷繁:
その前に勝ち越しタイムリーを打ったのが進藤(達哉)さんなんですよ。僕が7番で、進藤さんが8番だったんですけど、相手の阪神のピッチャーが伊藤(敦規)さんで、アンダースローの。もう大っ嫌いだったんですよ。で、2アウト1・2塁で僕に回ってきたんですよ。もう打てる気配まったくなかったんで。でもなんとか打ってやろうっていう、そういうオーラは出さなきゃいけないじゃないですか。それを出して頑張ったら、ちょっとだけ当たったんですよ。「やったデッドボールだ」と思って。内心はうれしいんですけど、その表現はちょっと悔しがる、だから「進藤さん任せたぞ」みたいな、そういう表現をして喜びながら1塁に。
徳光:
いや、こういう話って聞かないと分かんないですよね。
やっぱり投打のバランスはよかったんですかね、あの年は?

谷繁:
よかったですね。先発もなんだかんだいましたし。中継ぎも権藤さんがうまくローテーション、勝ちゲームでもローテーション組んで、で、最後佐々木さんがいましたし。打つ方はもう、つながり始めたら本当つながる打線でしたし。
徳光:
マシンガンでしたもんね。
メジャーリーグから契約話もFAで中日へ移籍
徳光:
見事に横浜で日本一を達成するわけですけども、その3年後に中日に移籍されますよね。これどういう経緯だったんですかね?

谷繁:
ちょっとずつメンバーが入れ替わり、佐々木さんもアメリカに行きましたし、権藤さんが、優勝してその後2年やられたんですけど、森(祇晶)さんになったんですね、監督が。正直今までの野球とは全然変わるだろうなっていう、まったく違うタイプの監督なんで。とはいえ、森さんってやっぱり西武であれだけ優勝された監督なんで、何か学ぶものがあったらという感じで1年間やったんですけど、そこが僕の中でどうしても入ってこないものがいろいろあったんで、これはもう、残りの野球人生を考えた時に、そこまで我慢してやることはもうしたくないっていう自分の中で結論が出て、FAしたんですね。
徳光:
佐々木さんがメジャーに行く時に誘われたってことですか?
谷繁:
そうです。だから僕は、そのFAの時に「もしその気があるんだったら来れば」みたいな。だから、横浜は僕、嫌いになって出たわけじゃないんで、最初は横浜を出るんであれば、やっぱりアメリカっていうのも選択肢はあったんですよ、ちっちゃい契約ですけど。一応契約はあったんですけど、でもやっぱり生活もあったし、自分の生活もあるし、それだったらもう、選択肢としてドラゴンズとアメリカっていう、どっちかしかなかったんで。
完全試合目前で交代 日本シリーズ「落合采配」
徳光:
落合監督時代の話と言いますと、2007年の日本シリーズの第5戦で山井大介から岩瀬(仁紀)に継投するじゃないですか。あれ完全試合目前ですよね。監督がまさか交代させることはあんまり思ってもいなかった?
谷繁:
僕は思いましたね。山井が例えば、「投げたい」とか「投げられます」って言ったら、たぶんそのまま行かしていたと思います、そのへんは。山井も「もういい」って、「もう代わります」って言ったみたいです。
徳光:
あの時にマスクをかぶっていたのは谷繁さんですよね?お立場でどういう…

谷繁:
1対0の試合で、ドラゴンズが何十年も日本一になってないっていうことも知ってましたし、もうここで決めないと日本一なくなるんじゃないかなって、僕はそういうことも考えてたんで、だから岩瀬っていう絶大なストッパーがいたわけですから、だから確率的にはそれが一番勝つ確率は高いんじゃないかなと思いました。
徳光:
横浜、中日と本当に多くの投手を谷繁さんはご覧になってきたわけですけど、すごいと思ったピッチャーは?
谷繁:
いっぱいいます。
徳光:
いますか?このピッチャーの球を受けてみたかったというのは?

谷繁:
近年でいうと、僕はやっぱりダルビッシュ有ですね。
徳光:
ああそうですか?
谷繁:
ダルビッシュはやっぱり受けたかったですね。
徳光:
それはどういうことで?
谷繁:
これは対戦で、すべてのボールが嫌だったんで。バッターボックスに入ってて。
徳光:
ダルビッシュのキャッチャーとして、いろんなボールを駆使してみたいという…
谷繁:
そうですね。組み立ててみたいという。
徳光:
大谷翔平投手よりも、ダルビッシュさんの方が上だと思います?
谷繁:
僕は実際に今、大谷を、本当の大谷を見てないんですよ、テレビでしか。だからだと思います。その比較ができないんですよ。
徳光:
なるほどね。

谷繁:
大谷が日本にいた時に、僕たぶんプレイングマネージャー(選手兼任監督)のはずなんですよ。で、大谷の先発試合があったんですよ。僕出るの嫌だったからやめました。
徳光:
そうなんですね。
谷繁:
ベンチからたぶん見てました。
徳光:
そうですか。そんなことがあったんだ。
谷繁:
まあ、そこは監督なんで(笑)。
徳光:
自分に権限がありますからね。
大谷という打者はどうですかね?
谷繁:
大谷ですか?すごいでしょ。
徳光:
あの打者・大谷は、佐々木、あるいは岩瀬だったら抑えられたとかありますかね?
谷繁:
岩瀬の場合はシュートもスライダーもあるんで、だからやっぱり横の揺さぶりでいきたいですよね。だからシュートでかなり意識させながら、振らせながら、最後はスライダーでいきたいですけどね。佐々木さんの場合がちょっと困るなっていう。フォークも落ちれば空振り取れますけど、落ちが悪かった場合拾われるんで。
徳光:
むしろ岩瀬さんの方が通用するかもしれないと。
谷繁:
もしかしたら“攻めやすし”かもしれないです。
徳光:
なるほどね。
「のけぞる」か「うつむく」か 松井秀樹に打たれたリアクション
徳光:
自分が印象に残っているシーンとしては、松井(秀喜)にやられたシーンがありましたね。
谷繁:
ひっくり返った時ですか?僕が。
ひっくり返った時ね、よく松井の映像で出てきますよね。
徳光:
出てくるでしょ?リンボーダンスみたいに。でも2パターンありません?谷繁さん。
ひっくり返るパターンとガクってなって…。
谷繁:
あるね。やってた、やってた。
徳光:
どういう違いがあるの?
谷繁:
あれ本当、今思うと本気だったんでしょうね。
徳光:
そうでしょうね。
谷繁:
それを隠すことができなかったんですよ、自分が。そこは大人にはなれなかったですね。

徳光:
イチローはどうですか?
谷繁:
イチローはですね、日米野球が昔あって、その時に同僚だった鈴木尚典、あれと一緒に出てて、イチローが外野で守備やってて練習の時に。帰ってきてロッカーにバット忘れちゃったんで、「尚典さん、ちょっとバット貸してください」と、練習するんで、練習打席入って5球打ったんですよ、パンパンパンパンパンって5球。「ありがとうございました」って帰って見たら、(バットに当たった跡が)1点しかないんですよ、当たってるところが。1点、人のバットで。あれは僕と鈴木は「ウソでしょ」みたいな。こいつすげぇなと。
中日で「選手兼任監督」に就任 その時、本心は?
徳光:
谷繁さんは、プロ25年目の2013年に42歳で通算2000本安打を達成したわけですけど、翌年から選手兼任の監督になられるわけですけど、この決断は苦しかった?やりがいがあった?

谷繁:
苦しかったですね。
徳光:
苦しかったですか?
谷繁:
自分ももう、44になる年でしたから、やっぱり両方の準備をする苦しさもあったんですね。選手としての準備もしなきゃいけないですし、監督としての準備もしなきゃいけないという。このことがきつかったっていうのがまずひとつですね。
徳光:
本当は監督を受けたくなかったみたいなところはあった?
谷繁:
正直ありましたよ。まだ試合に出られるという自分があったんで、内心自分の本当の気持ちとしては、最後はもしかしたら、帰れるのであれば横浜で1年でもね、ユニフォームを着て現役を終わりたいという、かすかなものもあったんですよ。かすかなあれがね。でも、それをまずなくさないと受けられないことだったんで、それを自分の中でなくしたっていうことも。
徳光:
まだまだお若いから、もう一度やっぱり監督としてユニフォームを着るっていうチャンスは訪れると思うんで、お受けになりますか?
谷繁:
これもね、縁とか運だと思うんで、僕はじゃあ「やりたいやりたい」と思っても、話がないかぎりはできない。だから、もし縁とか運があれば。
徳光:
縁と運はですね、向こうからやってまいりますけど、顔は自分で鍛えなきゃいけない。
顔は十分に鍛えていますので、谷繁さんの監督姿を見せていただきたいなと。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 2025年6月24日放送より)
「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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