プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

中日ドラゴンズ一筋32年で50歳まで現役を続けた山本昌氏。鋭く落ちるスクリューボールを武器に通算219勝をあげ、最多勝3回、沢村賞1回などの数々のタイトルを獲得。最年長登板(50歳1カ月)、最年長勝利(49歳0カ月)、最年長ノーヒットノーラン(41歳1カ月)など様々な最年長記録を持つ“中年の星”に徳光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

アメリカで出会った“生涯の恩人”アイク生原氏

山本昌氏はプロ5年目の1988年、中日が業務提携していたロサンゼルス・ドジャースに野球留学し、ドジャース傘下の1Aのチーム「ベロビーチ・ドジャーズ」で過ごした。

徳光:
プロで4年間過ごして一軍での成績が思わしくないと、なんとなく身の危険は感じるんでしょ。

山本:
毎年思ってました。

徳光:
それで5年目にアメリカ留学。でも、バラ色ではなかったわけですよね。

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山本:
バラ色じゃないですよ。だって、キャンプでアメリカのベロビーチに行って、そこに残されるんですよ。星野監督の部屋に行ったら、「もう今年はいいから、11月の終わりまでアメリカにいっとけ」って言われたんです。ほかの選手は3月に入ってすぐに日本に帰る。僕はそのままそこに残されました。空港で「頑張ってね、みんな」って手を振って。あとで星野さんに聞いたんですけども、「俺はお前を捨てたんだ」と、これははっきり言ってました。

徳光:
ところが、昌さんにしてみれば、それが大転機になったわけですよね。

山本:
大転機です。このときに出会った恩師がアイク生原さん。この方がいなかったら、たぶんアメリカ留学もまともにやれてなかったと思います。

“アイク生原”の通称で知られる生原昭宏氏は、早稲田大学、リッカーミシンで活躍後、亜細亜大学の監督を務めた野球指導者だ。アメリカ野球を学ぶため渡米し、ドジャース傘下のマイナーチームで用具係をしているうちにチームの信頼を勝ち取り、ピーター・オマリー会長の補佐兼国際担当を務めるまでなった。

山本:
アイクさんは指導者としての力量を上げるためにアメリカに行ったのに、すごく重宝されて、意に反してフロントに入っちゃったんです。そんなとき、ドジャースと中日から「この子を自由にしていいよ」って、僕がポンって与えられたんですよ。アイクさんにしてみれば、うれしいわけですよ。

徳光:
具体的にはアイクさんから何を授かったんですか。

山本:
アイクさんから言われるのは、「ボール、上から投げなさい」「ボール、前で放しなさい」「ボールを低めに投げなさい」「ストライクを投げなさい」。こんなんだけです。
4軍のオープン戦とかで投げるじゃないですか。そのとき、全部スコアブックをつけて、付箋を貼って注意書きが書いてあるんですよ。「このボールが高い」とか、「これにもっと気をつけなきゃいけない」とかって。もうスコアブックが付箋だらけなんです。それを見たときに、「僕はプロ野球選手のくせに基本ができてない。まず基本からいこう」と思いました。

1A野手に教わったスクリューボール

山本:
メジャーのキャンプって、レジェンドOBがいっぱい来るじゃないですか。サンディー・コーファックスとかドン・ドライスデールとか、やばい人たちがいるんですよ。
そしたら、アイクさんはその人たちを知ってるから、僕の手を引っ張っていって、「こいつに何か教えてやってくれ」って言うわけですよ。その中の1人にフェルナンド・バレンズエラがいたんですよ。それで、バレンズエラにスクリューボールを教えてもらったんです。

フェルナンド・バレンズエラ氏はメキシコ出身の左腕投手。スクリューボールを武器に活躍し史上初めて新人王とサイ・ヤング賞を同時受賞するなど通算173勝をあげた大投手だ。山本昌氏が野球留学した1988年当時も現役ピッチャーとして活躍していた。

山本:
“メキシコの英雄”と呼ばれて、ルーキーでありながらサイ・ヤング賞を取った。てんでおかしくて、すごすぎて笑っちゃうんですよ。左から投げてるのに右ピッチャーのカーブみたいに曲がるんです。バレンズエラのスクリューボールは、右がカーブを放ったみたいに左に曲がるんですよ。
教えてもらっても全然投げられない。アイクさんはもともとキャッチャーだったんで、ちょっと相手してもらって投げてみたんですけど、ボールがどこへ行くか分かんない。「やっぱダメですね」ってなって、諦めてたんです。

徳光:
うん、うん。

山本:
ある日、外野で内野手2人がキャッチボールしてたんですよ。手前の内野手が、めちゃくちゃいいチェンジアップみたいなシンカーを放ってるんです。すごいなと思いながら見てたら、知らない間に近づいてたんですね、僕。それで「そのシンカー教えて」って言ったんです。
次の日、敗戦処理の出番が来て、大敗してたんで「まあ、いいか」と思って、そのボールを投げたんです。そしたら、三振が取れて、「あれっ?」ですよ。それから必死になって練習してね。

徳光:
そのボールを。

山本:
はい。そしたら、だんだん成績も良くなって勝ち始めて、7月にはフロリダ・ステート・リーグ(1A)のオールスターゲームに出たんですよ、結構すごい選手がいましたからね。サミー・ソーサがいたし、タフィ・ローズがいたし。

徳光:
そうなんですか。

徳光:
そのスクリューの握りを見せてもらっていいですか。

山本:
バレンズエラは縫い目の幅が狭いところで人さし指と中指をかけてたんですけど、僕のはもっと幅広で、縫い目の幅が広いところに人さし指と中指をかける握りです。

徳光:
それで、どう投げるんですか。

左にひねりながら、中指と薬指の間からボールを抜く山本昌氏のシンカー
左にひねりながら、中指と薬指の間からボールを抜く山本昌氏のシンカー

山本:
右にひねる。ひねりながら、フォークみたいな感じで中指と薬指の間からボールを抜いて投げる。それで、最後、中指で右回転をかける。

徳光:
なるほど。それで落ちるわけだ。

山本:
左に落ちてくんです。これをすぐ覚えられて、それでもう、とんとん拍子に成績が上がって…。

アメリカに残ってメジャー昇格の話も…

徳光:
ということは、「そのまま残ってメジャーに行かないか」っていう誘いもあったんじゃないですか。

山本:
2チームから中日に、「8月いっぱいでメジャーの登録枠がなくなるんで、そのときに、ぜひ山本昌が欲しい」って話が来たらしいんです。ただ、僕は知らないです。

徳光:
なんでまとまらなかったんだろう。でも、そのまま行っていれば、野茂(英雄)さんより前ですよね。

山本:
そうですね。だから、僕じゃなくて良かったと思ってます。もし僕があのとき行ってたら、日本人ピッチャーはこんなもんかと思われてた。野茂君だったから、今の大谷(翔平)君とかダルビッシュ(有)君の活躍があるんで。

徳光:
そうですかね。

山本:
はい。ただ、話に聞くと星野さんは「行かせろー」って言ったらしいですよ。

徳光:
へぇ。

山本:
球団社長が星野監督に「どうしよう、こういう話が来てる」って相談したら、「いいじゃないですか。(山本)昌がメジャーなんて夢があるじゃないですか。行かせてください」って言ったらしいんです。
ただ、88年は中日が優勝争いをしてて、話が来たのは8月みたいなんですよ。ちょうど先発ピッチャーが2人ケガして外れたときなんです。だから、社長が「いや、今、優勝争いしてるし、山本昌は良くなってるみたいだから日本に呼び返そうよ」って。もし先発ピッチャー2人がケガしてなかったら、僕はそのまま行ってたかもしれないです。

徳光:
球団が呼び戻した。そのとき、アイクさんはどうでした。

山本:
僕ら、マイアミの遠征に行ってたんですよ。アイクさんが、昼くらいに部屋に来て、「ヤマ~、日本に帰るぞ」って言うから、「はぁっ?」てなってね(笑)。「いや、今、ドラゴンズが優勝争いをしてて、誰々と誰々が外れたんだ。それで星野が『帰ってこい』って言ってるよ」って言われたんです。

徳光:
なるほど。

山本:
僕は「嫌です。帰りません」と。

徳光:
断ったんだ。

山本:
はい。「こんなふうにアメリカに捨てといて、ちょっといいからって何だよっ」って思ったんです。

徳光:
なるほど。

山本:
そしたらね、次の日、今度はマイアミの部屋の電話が鳴ったんです。「星野だ。帰ってこい」って言われたんで、「はい、帰ります!」って。

徳光:
言っちゃったんだ(笑)。

山本:
言うしかないですよ。「帰りません」と言える人じゃないですから。

徳光:
それはそうだよね。言えないよね。

緊急帰国で5連勝し優勝に貢献

8月にアメリカから日本に帰ってきた山本昌氏は、8月30日の広島戦で5回からリリーフ登板。打者10人を1安打に抑えてプロ初勝利をあげた。

山本:
もううれしくてね。その日の晩は高揚してちょっと寝られなかったですね。

徳光:
そうでしょう。4年間で0勝のピッチャーでしたからね。

山本:
はい。人生で一番欲しいものが手に入ったって思いました。

ここから山本昌氏は大車輪の活躍を見せる。この1988年、山本昌氏は8試合に登板し5勝0敗、防御率0.55と負けなしの5連勝を飾り、中日の6年ぶりのリーグ制覇に貢献した。

徳光:
シーズン終盤だけで5勝しましたよね。

山本:
そうですね。日本シリーズまでに5連勝。

徳光:
すごいですよね。アイクさんにも報告したんですか。

山本:
毎試合報告です。電話を待ってるんですよ。

徳光:
そうなんだ。うれしいよね(笑)。

山本:
アイクさんが喜ぶので頑張ってたような感じでしたね。

9勝しても「もう一度アメリカ行け」

翌1989年、山本昌氏は9勝9敗、防御率2.93の成績を残しながら、シーズン途中で再びアメリカに野球留学する。

山本:
あの年は9勝5敗くらいになったんですね。次の試合は惜しくて1対0とかで負けたんですけど、そのあとポンポンって連続してKOされてね。そしたら、新聞が「10勝の壁」みたいなことを書き始めたんですよ。星野監督に「お前、何をやっとるんだ」と怒られて、「次の試合でも打たれたら、もう一回アメリカに行け、アイクのとこに行ってこい」って言われたんです。

徳光:
へぇ。

山本:
10勝も懸かってる。それに防御率もちゃんと2点台ですよ。

徳光:
うん。

山本:
次の試合は甲子園で8回まで5対2で勝ってたんですけど、8回裏の先頭バッターをフォアボールで出しちゃったんです。しかも、次のバッターのライナーをセンターが落球したんです。ノーアウト二塁一塁になった。それで、ピッチングコーチがマウンドに来たんですけど、「監督が『代えん』って言ってる」と。そこからきっちり4失点して6対5で負け投手。

徳光:
あれ(笑)。

山本:
ホテルに帰ったら、監督に「ヤマ、約束通り行け」って言われて、そのまま1人で行ったんです。しかも、チケット自費だからね。

徳光:
ええっ、自費ですか。

山本:
アイクさんが迎えに来て、「ヤマ、カーブを覚えよう。お前にはカーブが必要だ。明日からカーブを練習するぞ」って言われたんですけど、「でも、ヤマ、このカーブは3年かかるぞ」だって。「いや、3年かかるって、ええんかい!」と思って(笑)。

徳光:
(笑)。

山本:
それで、次の日から練習するんですけどカーブしか投げないんです。毎日100球以上。受けるアイクさんはレガースも何も着けてないんですよ。カーブを練習してるとワンバウンドとかするじゃないですか。体中に当たって、「アイクさん、大丈夫ですか」、「大丈夫だ~」って言ってね。毎日、カーブを投げてました。

2度目のアメリカ留学の翌年、1990年に山本昌氏は自身初めての2桁勝利となる10勝7敗の成績を残した。

山本:
このときはアイクさんが喜んでたな。

徳光:
アメリカ留学はご自分ではいい経験だと思われましたか。

山本:
そうですね。まあ行かされた感はあるんですけど(笑)。でも、やっぱりアイクさんがいなかったらダメだったので、そう考えると、素晴らしい経験だったと思います。あの人じゃなかったら全然ダメでしたよ。

「アイクさんが見ている」連続最多勝

徳光:
それで、山本昌独特のカーブを身につけることになるわけですね。

山本:
そうですね。アイクさんから「3年かかるよ」って言われて…。

徳光:
それを1年でものにして。

山本:
いや、違うんですよ。1年じゃものになってないんです。

1990年は10勝、91年は6勝だった山本昌氏だが、アメリカ留学から3年目の92年に13勝をあげる。

徳光:
ちょうど3年目に成績が伸びるんだ。

山本:
そうなんですよ。そして、その次の年から2年連続で最多賞を取るんです(93年17勝、94年19勝)。本当に3年かかったんですよ。不思議だな。
ただ、92年にアイクさんが亡くなってるんです。

徳光:
そうでしたよね。

山本:
92年のシーズン中に星野さんから電話が来て、「ヤマ、アイクが病気なんだ。今年いっぱいかもしれん」って言うんですよ。「ええっ、 どういうことですか」ってね。普段、連絡すると元気にしゃべるんですよ。
それで、シーズンが終わった翌日に病院に行ったんですね。面会してやっぱり野球の話をするんですけど、「ヤマ、悪いけど帰ってくれ」って言うんですよ。たぶん苦しかったんでしょうね。それで、教え子に苦しい姿はちょっと…。

徳光:
見せたくなかったんだ。

山本:
うん。あんなに野球が大好きなアイクさんが「帰れ」って言うのは相当だなと思ってね。これで最後だなと思いながら日本に帰ったんです。
そのあと、秋のキャンプ中に訃報を聞いて…。ロスでも葬儀されたんですけど日本でも葬儀があってね。そのとき、僕は泣き崩れて立てなくなってしまってね。長嶋一茂君に肩を支えられて外に出たんです。

徳光:
そうですか。

山本:
はい。あのとき一茂がいなかったら、こんな大きいの抱える人はおらんかった。

徳光:
長嶋(茂雄)さんとアイクさんも大変、昵懇でいらっしゃいましたからね。

山本:
アイクさんのすごいところは、長嶋さんも王(貞治)さんも星野さんもそうですけど、すごく著名な方から、野球を志す普通の学生の人まで本当に同じように対応する。

徳光:
そういう人なんですね。

山本:
ええ。だから、アイクさんを慕ってる方は多かったですね。

アイク生原氏が亡くなった翌年の1993年、山本昌氏は17勝5敗、防御率2.05の成績で、最多勝と最優秀防御率のタイトルに輝いた。

徳光:
タイトル獲得でアイクさんに恩返しができましたね。

山本:
こんなことを言ったらおかしいんですけどね、勝ったときにしか連絡をしなかった人なので、亡くなったと思ってないんです。
それどころか、93年は「あ、アイクさん、見てるな」と思いながらマウンドに行ってるんですよ。とても成人男子とは思えないようなロマンチックな考えですけどね(笑)。「アイクさん、この辺で見てないかな」って思ってマウンドに立ったらポンポン勝った。アイクさんが近くで支援してくれてたのかなというくらい、うまくいきましたね。

【後編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/18より)

「プロ野球レジェン堂」
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