プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
ヤクルト・巨人・阪神で4番打者を務めた広澤克実氏。明治大学時代には日本代表としてロス五輪に出場し金メダルを獲得。ヤクルトでは池山隆寛氏と共に「イケトラコンビ」を形成し2度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献するなど、3球団すべてでリーグ優勝を経験した。打点王2回。「トラ」の愛称で親しまれた和製スラッガーに徳光和夫が切り込んだ。
【前編からの続き】
ロス五輪で金メダル獲得
広澤氏は大学4年のときに、日本代表の一員として1984年のロス五輪に出場した。当時はプロの参加はなく、社会人・大学の選手が出場、野球は公開競技としてドジャースタジアムで開催された。広澤氏は4番打者を務め、アメリカとの決勝戦で特大3ランを放つなどの大活躍で、金メダル獲得に貢献した。
徳光:
大学時代の一番の思い出は、ロサンゼルスオリンピックじゃないですかね。
広澤:
最初に台湾対アメリカの試合があってですね。アメリカはジョン・フーバーとかホームランを七十何本打ったマーク・マグワイアとか、みんなドラフト1巡目の選手たち。
徳光:
そういう選手が出てきてたんだ。

広澤:
そうです。台湾のエースは“オリエンタル・エクスプレス”郭泰源ですよ。あの当時154km/hくらいの速球をパーンって投げるピッチャー。「見に行け」って言われたんですけど、見に行ったって、すげぇなって思うくらいじゃないですか。
それで、ドジャースタジアムの一番上のレストランに行ったんです。そこに長嶋茂雄さんがいたんですよ。「JAPAN」っていうユニフォームとジャンパーを着てる僕らを見て、長嶋さんが「君たち、何?」って。「僕たち、野球しに来たんです」って言ったら、「え、日本の?」なんて言われて(笑)。「JAPAN」って書いてますよみたいな。僕が長嶋さんを最初に見たのは、そのオリンピックです。
徳光:
そうなんですか。長嶋さんはどうしてそこにいたんですか。

広澤:
取材じゃないですか。カール・ルイスを見に行ったんじゃないですかね。「ヘイ、カール!」ですから。
徳光:
ああ、なるほど(笑)。
プロ初打席は小松辰雄氏に三球三振
1984年のドラフトでヤクルト、日本ハム、西武の3球団競合の末、ヤクルトに入団した広澤氏。開幕から一軍に入り、4月13日の中日との開幕戦に代打で出場した。

広澤:
プロ初打席は忘れられないですね。いきなり中日の小松(辰雄)さん。その年に最多勝とか沢村賞とかのタイトルを取る球界最速ピッチャーですよ。
私は新人ですよ。初球スライダー。こっちは真っすぐを待ってるのに、そんなん打てるわけないですよね。1球目はからかってんだなと思ったら、2球目もスライダー。スライダー、スライダーで簡単に2ストライク取られちゃいますよね。3球目は高めに真っすぐを外されて空振りで、三球三振。新人に対して非道っていいますかね(笑)。
徳光:
それだけ最初から小松さんに警戒されてたってことじゃないですか。
広澤:
そうでもないと思うんですけど、新人に打たれるのが嫌だったのかもしれないですね。
徳光:
チームの空気はどうでしたか。
広澤:
勝っていても「追いつかれる、逆転されるな」っていう雰囲気があるわけですよ。負けてると「あ、負けたな」っていう雰囲気です。やっぱり負けるっていうチームのメンタルですよね。
徳光:
失礼ですけど、当時のヤクルトは弱かったですよね。
広澤:
ほんとに弱かったですね。
関根監督の下で“のびのび野球”

入団3年目の1987年に関根潤三氏がヤクルトの監督に就任。翌1988年、広澤氏は池山隆寛氏(現・ヤクルト二軍監督)と共に「イケトラコンビ」と呼ばれ打線の主軸を形成。打率2割8分8厘、30本塁打、80打点の成績を残して自身初となるベストナインにも選出された。
徳光:
4年目には中心打者になって、攻撃力ではいけるって思ったんじゃないですか。
広澤:
いや、それは感じたことなかったですね。
でも、それまでは試合に出るのが意外と怖かったり、そういう戦いから逃げたいっていう思いが結構あったんですね。朝起きると「今日も試合か……」って、そういうのがあったんですけど、関根さんが監督になってからは「今日も試合だ!」っていう気持ちになりましたね。
徳光:
そうですか。
広澤:
人生で初めてのびのび野球をやったような気がします。

徳光:
関根さんは、イケトラコンビを育てたっていう意識がおありになったんじゃないですかね。
広澤:
世代を変えていく人だったので、たくさんの人たちがチャンスをもらいましたね。下手くそでも。
徳光:
なるほど。
でも、イケトラコンビはホームランを打つけど三振も多かったですよね。

1988年には池山氏が120三振(31本塁打)、広澤氏が111三振(30本塁打)を喫するなど、2人とも毎年100以上の三振をしていた。
広澤:
多いんですよ。ただ、今の村上(宗隆)とか、あっちのほうがもっと多いんです。あいつらは何にも言われないのに(怒)。
関根さんは、見逃し三振すると特に怒るんですよね。見逃し三振なんかしちゃうと、「バーカ!」って言われる。
徳光:
(笑)。

広澤:
多分「バーカ!」って言われてたのは、僕と内藤(尚行)っていうピッチャー。あいつはほんとにバカだから、「バーカ!」って言われてたんですけどね(笑)。
「野村ミーティング」で寝ていた“ご子息”
1990年からヤクルトの指揮を執ったのは野村克也氏。Bクラスが定位置だったチームを立て直し、92年に14年ぶりにセ・リーグ優勝を果たすと、98年までの7年間で4度のリーグ制覇、3度の日本一に導いた。
徳光:
野村監督との出会いは野球人として大きかったですか。
広澤:
大きかったですね。野球の考え方が180度変わりました。
徳光:
ミーティングが多かったんでしょう。
広澤:
ミーティングは多いっていう問題じゃない。毎日です。監督が1時間ずっと黒板に書いてるんですよ。1時間ずーっと書きっ放し。だから、こっちもノートにずーっと書きっ放し。人生で初めてペンだこができました(笑)。
徳光:
みんなノートに書くものなんですか。
広澤:
そうです。ノートの提出もありますしね。
1人だけ、寝てたりぼーっとしてるやつがいましたけどね。名前は言えませんけど…。
徳光:
今、財産を残してる人でしょう(笑)。

広澤:
そうそう。テレビつけたら出てるやつですよ。どっかの“ご子息”(笑)。でも、あいつだけは怒られなかったですね(笑)。
僕が見たわけじゃないですけど、野村さんが言うには、「ノートにマージャンの国士無双っていう役満の絵が描いてあった」って(笑)。
徳光:
野村さんは選手を一人一人把握するってことなんですか。それとも、自分の野球をみんなに知らしめたいってことなんですか。
広澤:
“野村の考え”ってやつですね。高津(臣吾)も真中(満)も「監督してて迷ったときは、当時のノートを出して、いろんなことを考えた」って言ってますから。
“野村克也VS長嶋茂雄”互いに嫉妬!?
徳光:
僕も野村さんによく言われたんですよ、「あんたは何でも長嶋やから」って。言われた後で、必ずいろいろとお話してくれたんですけど。
広澤:
嫉妬ですよ(笑)。
徳光:
あの輝きに。
広澤:
それと「成績は俺は負けてない。むしろ俺のほうが上だ」と。
徳光:
はるかに上ですね。
広澤:
「何であんなに向こうが持ち上げられて、俺は誰も見てくれないんだ」っていう男の嫉妬。でも、あの嫉妬が野村さんを勉強家にさせたんだと思いますよ。
徳光:
なるほど。
広澤:
ただ、長嶋さんのことをけなしたことはないですね。
徳光:
そうですか。
広澤:
マスコミを使って、「長嶋だ、明日から楽だ」とかって、長嶋さんをバカにするようなコメントはどんどん出してたんですけどね。
徳光:
言ってましたね。

広澤:
だから皆さん、ちょっと勘違いしちゃってるところもあると思うんですけど、野村さんは長嶋さんが好きなんですよ。姿勢のことをすごく言ってましたね、「どんなときでもファンのために全力を尽くす」って。
徳光:
広澤さんでなければ分からない話ですね。
広澤:
長嶋さんは全く反応しないので、そういう人なんだなと思ってたんです。でも、ジャイアンツに行って感じたのは、やっぱり長嶋さんもヤクルト戦になると、ちょっといつものミスターじゃないんですよね。
徳光:
へぇ。
広澤:
負けるとウーッて。みんなの前では出さないんですけど、長嶋さんも実は野村さんのことをすごく意識してたと、僕は思いますね。

徳光:
確かにある意味で、長嶋さんは野村さんをリスペクトされてたんじゃないかと思うところはありますよね。もしかすると、野村さんの野球術に嫉妬してたんじゃないかなと思うほど。
開幕戦のとき、監督に花束贈呈がありますよね。そのとき、普通は監督同士で握手するじゃないですか。長嶋さんは野村さんと全然目を合わせずにホームベースのところまで来て、花束もらって、そのまま帰っていきましたもんね。これは長嶋さんのほうにも相当意識があるんだなってね。
“スペシャリスト軍団”でリーグ連覇・日本一

野村監督の下、ヤクルトは1992年・93年とリーグ連覇を達成。93年には西武との日本シリーズも制して日本一に輝いた。この年、広澤氏は94打点で自身2度目の打点王に輝いた。
徳光:
2年連続優勝、そして日本一の立役者、まさに中心打者になったわけですが、ご自身では何か変わったっていうところはあったんですか。
広澤:
それは変えてくれたんです。先ほど言った野村さんですよね。
徳光:
やっぱり打点王は狙ってましたか。

広澤:
いや、狙ってたわけじゃないです。でも、前のバッターがランナーに出ますし。チームっていうか、ピッチャーで岡林(洋一)や西村(龍次)や高津(臣吾)が入ってきたり、キャッチャーで古田(敦也)が入ってきたり。
徳光:
野手では飯田(哲也)さんとか城(友博)さんとかですね。
広澤:
そうそうたるメンバーがドラフトで入ってきて、自分は自分の役割を果たすだけで、タイトルって意識はあんまりなかったです。タイトルを取っても野村さんには怒られますからね。
徳光:
そうなんですか。

広澤:
「お前、もっと打点取れただろ」って。「もっと何かやれ」って必ず怒られてました。自分では思わなかったですけど、相手から嫌がられるチームになったんだと思いますね。
代名詞“広角打法”…広澤氏の打撃理論
徳光:
広澤さんと言えば広角打法ですよね。本当に右にもよく大きいの打ったし。
広澤:
いや、そんなことはないですよ。
僕の欠点なんですけど、うまく引っ張れなくなりましてね。それから右に打つことが増えましたかね。なかなかインコースの打ち方を修正できなくて。でも、晩年に修正できたので、そこで自分の今のバッティング理論が完成したっていいますかね。
徳光:
それはどういう理論なんですか。

広澤:
インコースの打ち方とアウトコースの打ち方は違うんですよ。
インコースを打つときってインパクト、ボールが当たる瞬間は、バットがボールの軌道に垂直になってないと飛ばないんですよね。アウトコースを打つときは、バットだけをみるとインパクトの瞬間は斜めになってますよね。
となると、ピッチャー側の肩を開かないと打てないのがインコースで、肩を閉じないと打てないのがアウトコースということです。
徳光:
アウトコースは肩を閉じるわけですか。
広澤:
アウトコースは肩を閉じてないと打てないじゃないですか。ここがまず気づいたこと。
あと、バットのヘッドが遠回りしちゃう人っているじゃないですか。この要因って手首にあって、右バッターの場合の左手首とバットの角度が例えば70度とするじゃないですか、この70度が80度、90度になるとバットが遠くなっちゃう。この70度の角度を保ったまま打っていくのがインコースなんですよ。つまり、右手を使って角度を保ちながら、肘を開かないようにすると打てるんです。
僕は、手首でバットを早く回してしまう癖があって、それで詰まってたんですね。
徳光:
それでインコースが打てなかったんですか。
広澤:
打てなかったんです。
バットって高いところから一番低いところに来て、また上がっていくんですけど、一番低いところを最下点って言うんですね。インパクトと最下点の関係で、インパクトのあとに最下点を迎えるのがダウンスイング。最下点のあとに上昇していくところで当たるとアッパースイング。名選手はほとんどアッパースイングです。
徳光:
今の大谷選手はまさにそうですよね。

広澤:
アッパースイングです。でも、ダウンスイングと思って打ったほうが、うまくいく人もいますよ。王さんなんか振り下ろすように打ってましたよね。落合さんもそうですよ。
徳光:
刀で斬る感じでしたよね。
広澤:
だけど、打つ瞬間はアッパースイングになってるんです。だから、彼らが考えるものと実際の表現は変わるんですよね。
【後編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/4より)
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